われこそは、帝王後鳥羽院
後鳥羽院の魅力の多くは院の批評によっていた。これまでに読んだのは「承久記(原文)」「増鏡(原文)」「後鳥羽院(目崎徳衛)」「後鳥羽院(保田與重郎)」「後鳥羽院(丸谷才一)」、そして歌人・塚本邦雄「菊帝悲歌」など、とりわけ古典的名文とされ、抒情哀切たっぷりに院のために筆を揮った「増鏡」の影響が大きかった。そこで後鳥羽院御百首から有名な御製、
われこそは 新島もりよ 沖の海の あらき浪かぜ心してふけ
院が承久の事に敗れ、隠岐に流されたときのもの、「沖」は「隠岐」のことで、「増鏡」では文脈的に悲歌として捉えている。「わたしこそはこの島の新しい島守である、孤独失意のわたしだが、荒々しい海風よ、どうかいたわって吹いておくれ」という、囚われの身となった院が自然に向けて哀願するかに思われている。
が、院の不羈不屈の性格と、王朝文化を死守すべくその歌風を考えるに、これは少し違う気がする。むしろ逆に、島の新しい国王として君臨し、ゆえに自然にたいして、やれるものならやってみろという覇気と気骨があるような気がしてならない。いわば新帝王として自然に厳命しているのである。初句に「われこそは」とあるように、ここには決然とした覇道君臨の強い意志があるかと。
われこそは 新島もりよ 沖の海の あらき浪かぜ心してふけ
「このわたしこそ、今日から新しいこの島の神である、海風ども、吹くなら吹いてみろ」
わたしには、どうもこうした意にとれるのだが。