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髪は女のいのち、形見の黒髪

12歳より建春門院平滋子に仕えた女房、健御前けんのごぜんの手になる「たまきはる」。後白河法皇と清盛との政争ではいわば潤滑油の役割だった女院だが、一方では英明と美貌で知られた。御前は初出仕の際の日記にそれをこう記す。

あなうつくし。世にはさは、かかる人のをはしましけるか

以来心を尽くし、慕い申し上げる旨を述べている。当日記は、平安末期高倉朝平家文化圏について、とりわけ院宮での作法や服装について詳しく述べているが、それでも初めて仕えた建春門院への追想に多くの言葉が費やされている。

ときどきの出来事にまつわる女院の振る舞いや人柄を記し、またときに笑い話で包んでいるが、佳人薄命なのか、女院は35歳で崩じた。その早すぎる死を悲しくもこう刻む。

花の散るやうなりし夢のはかなさに、桜ばかり、昔も今も恨めしく、さすが形見なる色も匂ひもなかりけり。

桜の花が散るごとく逝ってしまわれ、形見となるものもないとその無念を嘆く。しかしのち、常陸ひたちという2歳年長の同僚女房に出会った際の、こんな件がある。

女院の近くに仕えていた常陸もまた悲嘆にくれている。思いがけず、作者・御前のそばを通りがかった折、(作者の)髪の裾が女院自ら削いだままになっているのを知り、女院の形見だといわんばかりに常陸はうっぷして、髪を顔に押し当ててはさめざめと泣いてしまう。それを見た御前も思わずたえかねてしまったという。女院は、女房たちの髪を自ら手入れしていたことがここに伺える。

かねてから「髪は女のいのち」と言われているが、黒く長く艶のある髪をして女性美としていた平安期ならなおのことそうだったのだろう。生命、あるいはその象徴たる「血」の象りである髪だが、しかしここでは一転、死者の形見となっている。そしてそれは、他ならぬ御前の生に引き継がれていった。

特別近くに仕えていたこの常陸は女院の死の悲しみを携えて、のちに髪を落とし、尼になった。22歳という若さだった。

作者・健御前は日記の冒頭、出仕していた女房を上臈じょうろう(上級)から順次紹介しているが(名寄せ)、言い知れぬ思いと気遣いからか、この常陸のところは欠文のまま何も記されていない。

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