勝手にノーベル文学賞予想
被植民地の国々が宗主国のヨーロッパ諸国から独立を果たすなか、それまでの西欧中心主義を反省する思想的運動、ポストコロニズム。その代表的な作家にカルカッタ生まれのアミタヴ・ゴーシュがいる。主著は翻訳されているとおり、日本でも知る人ぞ知る作家である。
作家が20代の頃、エジプトはアレキサンドリア大学に留学してフィールド・ワークを重ねていたころの短編に「The Imam and the Indian」という実に面白い作品がある。Imam とはその地域やコミュニティーが認めたいわば長老的な指導者のこと。そこで作家ゴーシュが、ある村のイマームと議論をする話だが、ここには単なる個人的な出来事以上のことが描かれている。
牛を神聖視し、死体を火葬にするヒンズーの作家に対して、アラーを信奉するイスラム世界に生きるイマームが、どちらがより西洋に近いかとエスカレートする様子には思わず吹き出してしまう。イマームによれば西洋とは「科学、ガスタンク、銃、そして爆弾」であり、エジプトは決して引けを取らないと主張する。しかしこれは暴力そのものだ。一方作家は、同じく科学技術のテクノロジーでできた護身のオーラを纏っていると言って譲らない。それは透明なガラスのように、第三世界からみれば羨望の対象だと言い張り、これはやがて、報道関係者がお札のようにぶら下げるれっきとした身分証明書となって、ついには情勢不安定な危険地帯のルポの(売れ行きを当て込んだ気の利いた)エピグラフになっていく。
ともにどちらがより西洋に準ずるのかと熱を上げているのだが(文脈には明記されていないが、ここでは西洋第一と前提されていることは明らか)、これはかつて栄華を誇ったインドのグプタ朝と、同じく富貴をきわめたアッバース朝イスラム帝国のそれぞれの威信をかけた言い争いにも見えて、どこかユーモラスである。しかしイマームの主張はそれ自体イスラムの信念に反することであり、作家ゴーシュのほうも第三世界のルポを売り物にしてはまるで内省のない護身のオーラに批判的になろうとする。
…delegates from two superseded civilizations vying with each other to lay claim to the violence of the West.
(われわれ2人は西洋の武力に匹敵すると互いに競い合う、新しく取って代わる文明を代表していたのだ)
西洋からの独立が、他ならぬ西洋に追いつけ追い越せだったと、我に返った作家のこの言葉は、作品の肝要でもあろう。
ところでここには、この2人を仲介するいわば狂言回しがいるのだが、識字のできない彼は2人の議論から締め出されてしまう。これは第三世界をめぐる報道で置いてけぼりにされている一般の人々をにおわせている。しかし最後のオチは現地のイスラムであるこの人物がゴーシュに「俺が死んでも頼むから焼かないでくれよ」と皮肉っぽく言って作品は閉じる。
昨今多様性が議論されているが、それまでには哲学、文学、芸術において「脱中心」「周縁」「辺境」というテーマが議論されてきた。それはこうしたポストコロニズムの思想が布石となっている。現在、経糸の時間軸に沿って、光は同心円的に地理的な広がりをみせ、世界の様々な人々に照明が当てられている。
今年2024年のノーベル文学賞はアミタヴ・ゴーシュ、受賞理由は「世界の多様な人々の姿をユーモアと理知で描き、来るべき新しい地平を用意した」と、勝手に予想する。
発表は10月10日。
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