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安徳帝入水の悲劇、象徴から一瞬の実像へ

壇ノ浦で源氏に攻められた平家の苛烈な最後。幼帝安徳天皇を除いて、その誰もが死の運命を悟っていた。平家物語が描いた、人間の意のままにならない過酷な状況は、「歴史とは何だろうか」という問いをつきつける。

平家一門の繁栄は安徳帝誕生によって達成され、最後の没落までこの幼帝を守り続けた。それほどに安徳帝は一門団結の中心であり象徴でもあった。しかし全編を通じて安徳帝が姿を現し、口を開くのはたった一度だけ、最後の入水じゅすいの直前のこと。それまで権威の象徴だった帝が実体をもって描かれる。とその瞬間、波間に姿を消してしまう。歴史が蒙った悲劇の一瞬である。

先帝、今年は八歳。御年のほどよりもおとなしく、御髪みぐしゆらゆらと御せな過ぎさせ給ひけり。あきれ給へる御様おんさまにて、「これはいづちへぞや」と仰せられければ、御ことばの末をはらざるに、二位殿、「これは西方浄土へ」とて、海にぞ沈み給ひける。

「これはいづちへぞや」(私をどこへ連れて行かれるのか)

登場するや発せられた言葉はこれだけである。はじめて見せたその姿は大人びていてもあどけなく、置かれた状況に驚き、この一言だけを残して深い悲しみの海の底に沈んだ。言語を絶する状況のなかでの先帝のこの言葉は、私の耳の底に張りついてしばらく離れなかった。これをもってして平家氏族の歴史は終息したのである。

乱世末代を連綿と綴る平家物語には、政治的議論も戦術論も人間心理への探求もなければ言及もない。では、物語にとって歴史とは何であったのか。それは人間と運命との様々な交錯であり、想像を絶する熾烈な状況がそこかしこにあったということではなかっただろうか。それら数多の状況は、ときに美しく貴く、ときに痛ましく憎むべきものだが、しかしそこに立たされる運命を担った人間が存在した。そして彼らの意志や行為、その実現や挫折を見つめること。物語がわたしたちに見せる歴史とはそうしたもののような気がしてならない。

書き手はあまりに痛ましい安徳帝の悲劇に次のように深い哀悼の辞を捧げている。

あはれなるかなや、無常の春の風、花の姿をさそひたてまつる。かなしきかなや、分段ぶんだんの荒波に龍顔りゅうがんを沈めたてまつる。十歳にだにも満たせ給はで、雲上の龍くだつて海底のうおとならせ給ふ。

「これはいづちへぞや」

高貴な一瞬の姿とこの一言をわたしたちに残し、実像から再び象徴となった幼帝は現在下関市の赤間神宮に祀られている。



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