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鎌倉残花断絶秘事

ときの執権泰時と連署時房れんしょときふさの自署と花押かおうが記された、尼御台あまみだい・北条政子の遺書には、実朝亡きあと四代将軍に据えるべく京から連れてきた三寅みとら(のちの頼経よりつね)を元服させたのち、源媄子ビシ/よしこ御台所みだいどころ(正室)とする事とある。

伊豆の修善寺しゅぜんじに幽閉されたあげく、無惨な死を遂げた源家二代将軍頼家よりいえには、比企ひき一族とともに滅んだ一幡のほかに三人の子があった。媄子はこのひとりである。実朝を暗殺した公暁と、政子の庇護のもと出家するも和田の残党に担がれ自刃に追い込まれた千手せんじゅと、この二人が討たれたのち、ただ一人生き残ったのが媄子である。その母は比企能員よしかずの娘若狭局わかさのつぼね、母と兄弟ともども比企氏が北条に攻められた跡地である竹御所に住み続けたことから、竹御所たけのごしょと奥ゆかしい名で呼ばれた。源氏最後の血である。

尼将軍として君臨していた祖母政子は竹御所を寛容に庇護する。一二一六年、竹御所は十四歳で将軍家実朝御台所の養女となる。彼女をできる限り安全な場所へとの政子の計らいだったのだろう。三年後、将軍跡継ぎとして京から三寅が下る。まだ二歳の幼児だったが、十七歳になっていた竹御所とやがて結ばれようとは、政子を除いてこのとき誰も思いもしなかったに違いない。それから六年後、政子はこの遺書を置いて六十九歳で亡くなった。その直前、政子は執権と連署の立ち会いのもと、三寅と婚姻する旨を竹御所直々に約束させたとも伝わる。

翌一ニ二六年、三寅は頼経として元服し征夷大将軍となる。九歳の少年将軍、いわば北条の傀儡かいらいである。北条幕府の重臣らは、政子の遺言を守ると見せかけ、源家命脈のただ一人の生き残り竹御所の始末をこの方向、つまり産死に見ていたのではないかと囁かれる。頼経が男として機能する頃には、竹御所は三十歳前後である。当時、男を知らぬ深窓の女性にとってきわめて難儀な高年初産であった。幕臣はこの機を逃すまいと謀略をめぐらしたのではあるまいか。

一二三〇年、二人は正式に結婚した。母と子ほどの年の差は不釣り合いだが、夫婦仲は睦まじかったとある。竹御所が懐妊したのはこの四年後だった。

産所にあてられたのは時房の館で、産婆には老獪ろうかい処世に長けた三浦義村が差し向けた手練しゅれんの女が二人あったが、男児は死産であった。苦しい難産だったため大量の出血により間もなく竹御所も亡くなる。さもなくば、源家は命脈を保ったことだろうが、しかしあまりに不幸なこの出来事は、北条百年を見据えた幕府側の奸計かんけいだったともいわれる。立ち入りが禁止されていた産室からは一瞬産声が聞こえたと言った、竹御所に長く仕えていた忠実な乳母がいたが、彼女は竹御所の死後、近くの池で溺死体として発見された。ともすればこの秘事は、北条の手によって然るべく計画されていたことだったのかもしれない。

権勢に操られた女性の悲痛な運命として単に退けがたい、他ならぬ自らの血でもって血脈を絶やした竹御所はあまりに無惨でやりきれない。竹御所なる名とともに実際にしとやかでゆかしい女性だったというその身に、儚い露の玉のように残っていた源氏最後の血は、こうして一滴残らず絞り取られたのである。

のち、母方の比企氏滅亡の跡地には妙本寺が建てられ、鎌倉駅からほど近い東北の山麓にいまも閑静な寺域を残している。生前、信仰心厚かった竹御所は、死後に釈尊の御像と、それを祀る御堂を建てて欲しいと遺言した。その堂跡は現在墓地となっており、釈迦像は寺宝として残っているという。

鎌倉の悲しき残花ともいえる源家最後の彩りだった竹御所。三十二歳であった。

付:数ある歴史の悲話のなかでも、こうして権力の血の襞に沈んだ哀切きわまりない竹御所の話を知ったとき、私はしばらく心が立たなくなったが、この短く拙い覚書をしたためるあいだ、およそ800年前の遠くの世から招く、血濡れた竹御所の幻影が脳裏から離れなかった。


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