悲しむだけ悲しんだら、ちゃんと見えるものは変わる

■思ったより長く住んでしまった家
ようやっと、「(故人と暮らした)この家を出よう、引っ越そう」と思えた。
2.5年目の夏までかかった。

家の折々で彼の面影を見ていた。
洗面所で歯磨きしている時、違う男が横にいても、故人がひょこって出てくる光景が脳裏にあった。
今はだいぶ減っているけど、不意によく故人の声が私の名を呼んだり、だらしなくしていると「足を閉じなさい、足を」「ソファからちゃんとベッドに移動しな」って叱る声を聞いていた。(※完全に幻聴です)

亡くなった直後に酒に酔ったまま勢いで一晩のうちに遺品を整理して実家に送ってあげるものは送り、処分するもの処分しきり、私がキープするものは箱に詰めるという芸当をやってのけていたので、遺品は整理できていて、遺品を日々目にしないようにしたにも関わらず。

■悲しむだけ悲しんだら、ちゃんといつか見えるものは変わる
この夏は死ぬかもなってくらい体調崩してガチ寝込み、薬を大量投与しまくり、生産性ゼロの日々を過ごした。
ただ、寝込むと暇なので頭だけが動く。
その結果として、
「引っ越そう!」
も思いきれた。
私は今、ようやく少々の自分の人生の再生を感じている。

悲しむだけ悲しんだら、ちゃんといつか見えるものは変わるのだ。生きてさえいれば。悲しみは終わらないけど。

■奇跡なんてないし、神様とかほんとウンコ
あんなに信仰深い人のもとにも奇跡なんて起こらなかったので、
「ほら見ろ神様のバーカ!善い人を絶望させるなんてお前が作った天地とかいうシステムクソ仕様!」
と無宗教の私は、彼の死に際して思った。

故人の死のおかげで、死んだらマジで魂もクソもねぇことを思い知ったのだ。
頭ではわかっていたけれど、心というか骨身に沁みてよくわかったというか、なんていうか語彙力ないな。

死んだら何にもない。何も残らない。(誰かの心の中に残るとか綺麗事は寝言で言いやがれ)
いつまでその人が生きていられるかなんて神様も多分日時バッチでガチャ引いてるレベルで誰も決めていない。

■人生は旅なのかも
ってなるともはや、凡庸な一日であっても、一日一日が一度きりの旅みたいなものだ。
全部アドリブ、計画したって結局計画通りには行かない一度きりを楽しむしかないもの。

「今日見たい景色を私は見たか?考えたいこと考えたか?」と自分に問うた時に、できる限り「YES」と答えられたら、それで良いかなと思う。
もしくはただ、「あー楽しかった!あー疲れた!」って眠れるような一日ならいいかなと思う。
それくらいの人生の期待値がいい感じだ。
みんなが手に入れるものが、私の幸せかどうかは限らない。
みんなが感動するものが、私の心を震わせるかは分からない。

好きなものを探そう、もし見つけたら大事にしよう。
相変わらず貯金はないけど、気持ちよく暮らせる、新しいお家を見つけよう。
明日もふてぶてしく、ただただ静かに生きていくために。

私はこれからも多分たくさん悲しむし泣くし自殺したくなると思うのだけれど、今の私ならどうにかこの世に踏み留まれる。
少しずつ再生して、揺り戻して、その繰り返しでも。

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