見出し画像

時「長」料理

料理をするときは、いつも急いでいた。
仕事終わり、とにかくお腹がすいている。はやく眠りたい。もしくは、このあともやることがあるから、ささっと。

日本で働いていた頃は、夜20時までに家に着いた日は、料理をつくることを目安にしていた。
それを過ぎたら、成城石井のお惣菜をオフィスで食べるか、夫と帰り時間が合ったら焼きとん屋に行く。つくりおきがあったら、それを食べる。


我が家は不機嫌になるくらいなら、家事を無理に頑張らないほうがいいという方針なので、二人とも仕事で余裕がないとき(そういうときのほうが多い)は、惣菜や外食が多くなった。

夫は料理が癒しになるタイプなので、たいてい休日は夫がつくっていた。平日も早く帰れて、気分がのるとつくる。

自ずと私が料理をするのは平日になり、平日はだいたいお腹がすいて、急いでいる。


そんな調子だったから、仕事を辞めてベトナムに来て、時間ができても、しばらくはなぜか急いで料理をつくっていた。

癖で時短レシピを調べたり、急いで野菜を切る自分に、あれ?と思ったのは、ベトナムに来てから1ヶ月と少し経ったころだった。
今の私は、「時短」する必要がない。


時短ではない料理で浮かんだのが、休日の夫だった。

Netflixを見ながら、お酒を飲んで、ゆっくり丁寧に野菜や肉を切るのが、幸せらしい。時間はかかるが、丁寧だし、料理好きとしての探究心があるので、できたものはおいしい。

ジェンダーロール的なプレッシャーもないのかもしれない。私はどこか「女性は、ささっと手早くおいしい料理をつくるもの」という、ドラマやら漫画やら会話に埋め込まれたステレオタイプに毒されて、料理にプレッシャーを感じていたような気もする。


そう気付いた日から、夫の真似をしてNetflixを流しながら、ゆっくり丁寧に野菜や肉を切ることにしてみた。
手早くできるかどうかではなく、その日食べたいものや、つくってみたいものを(たまに夫が食べたいものも聞きつつ)、つくってみることにした。

時計は見ない。ドラマが盛り上がったら、手を止めたりもする。


それで、私の料理が劇的においしくなったかというと、そんなことはない。品数が劇的に増えたわけでもない。


変わったのは、私と料理の関係性だ。

日本にいるときは、野菜を切るのが本当に面倒で、できるだけはやく終わらせたかった。一汁一菜だって面倒だと思ったし、料理をはじめるのが億劫だった。

ケークサレとかスコーンとか、誕生日用の料理とか、そういう非日常の料理をつくるときは、元の私だって楽しいなと思っていた。

でも、普段の料理が面倒でないのは、ちょっと新しい。炊飯器がないので、フライパン炊きしているごはんを、好みの硬さに調整するのも面白い。

料理苦手キャラを、そろそろ脱することができるかもしれない。


こんなにゆっくり料理できるのは、仕事や家庭環境のラッキーが重なっているからで、束の間のことなのかもしれない、とも思う。

でも、ゆっくり料理をするようになって思うのは、料理という人間の基本的な営みを、じっくりする時間もない生活ってなんなんだろうということだ。

「食べる」という生きるために必要な行為と日々の喜びのために、焦って準備をする。時短を追究する。そんなかたちでしか、生活を保てないなんて、本当にそれしか道はないのだろうか。

生活を味わうために生きているのに、焦らなければ生活が立ち行かなくなる、不合理なかんじだ。


こんなことを書いていると、仕事や子ども、介護の事情があると、そんな呑気なことは言っていられないという、(私の想定する)世間の声が頭に響く。

それでも、なにかやりようを見つけたい。合理的に時短テクニックやテクノロジーを使ったとしても、「時短せねば」という焦りやプロセスの雑さを回避できさえすればいい。
(というか、世の料理好きの人は、そうやって時短レシピとも向き合っているのだろうか)


日本に戻る1年と少しあとの私にとって、また料理が面倒なものになっていないことを願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?