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ささやかな美しい日々を書き残すこと(『コルシア書店の仲間たち』読書日記)

(※ネタバレあります)

読書は瞑想。

その言葉を思い出したのは、久しぶりに須賀敦子さんの本を読んだからでした。

ふと気づけばここ最近、知的好奇心でわくわくしたり、自分と照らし合わせてぐるぐる考えたりするような読書ばかりしていたようです。

読んだのは『コルシア書店の仲間たち』。

30歳のころから10年あまり、ミラノで暮らした須賀敦子さん。
舞台は、彼女がミラノで出会った、コルシア・デイ・セルヴィ書店という教会のなかの小さな書店です。

この書店、第二次世界大戦後に共同体を理想とするカトリック左派の若者たちのグループが活動の拠り所としていたところで、当時の須賀さんも仲間として迎え入れられたのです。

この本は、コルシア書店で出会った人々との日々を、62歳のときに回送して綴ったものです。


そんなシチュエーションを経験した日本人女性なんて、きっとほかにいません。
だから、そこでどんなことが起こったかを知ること自体、とても刺激的なはずなのですが。

この本に惹きつけられたのは、そこで起こった事実というより、62歳の須賀さんが静かに描き起こす、当時の空気感でした。

たとえば、このあたり。

ニコレッタと私は、締切の内にひとしい翻訳やら、出版社にたのまれて書く、私は文学畑、彼女は社会科学畑の外国書の梗概の作成に没頭し、それについて話し合い、あとはキッチンの裏の、坂になった草地に寝ころがって、どうすれば手にはいるのかさっぱり検討につかない未来の夢を追うことにかまけて、あれもしたい、これもしたい、と空想の店をひろげて騒いでいた。また、きみたちは、こんなところでさぼってるな。通りかかったシポシュ氏に、あきれられながら。

私は本を読みながら、ときどき飛んでくるアブやミツバチが、乳母車にはいらないように気をつけていればよかった。空と雲とアマレーナの木が、ゆっくりと私を包んでくれた。

ささやかな日常を切り取った描写ですが、読んでいると、景色が浮かんで、温度や湿度も感じられます。
そのときのあたたかくて幸せな空気を、静かにじんわり追体験するような感覚になるのです。

でも、ただ幸せな空気を浸るだけではないのが、この本の味わい深いところ。

この幸せな時間は、昔のことである。

文章の端々で、その事実が突き付けられるのです。

夜の食事のあと、アイスクリーム屋に行ってしゃべるのが、その年の夏、仲間内ではやっていた。食後、九時とか十時とかいう時間に急に思いたつと、街に残っているだれかに電話をかけて、街中のアイスクリーム屋で落ち合うことがあった。

なにかで、枕の話をしていたとき(気のおけない友人たちと、枕の話をして暮らす午後の時間など、もう一生もてないのではないだろうか)、

ちょっとした表現で、頭に浮かんだ幸せな情景がモノクロになり、ぼやけていく。

美しい描写から滲み出る、いまはないものへの憧憬のようなもの。

「さみしい」とか「懐かしい」とか、そんな単純で短い言葉でおさめられない大切なものを、ひとつずつ書き残しているように見えました。

そして読んでいて気になることが、もうひとつ。
このコルシア書店との日々のなかで、須賀さんは夫ベッピーノを亡くします。
ただ本のなかで、その背景や須賀さんの内面は、ほとんど描写されません。

他の話の途中に、さらっとその事実が何度もでてくるのです。

さらっと書かれているけれど、事実がでてくるたびに、美しい日々にぽっかり穴があいたような感覚が残る。

ぽっかり空いた穴と、この人はどう向き合ったのだろう。
頭の片隅で疑問を持ちながら読み進めると、最後にこんな一節がありました。

若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちは少しずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。

いま本のなかの須賀さんと同じ30代の私は、60代の須賀さんの書くこの言葉は、まだ実感として持てません。
まだ「孤独は荒野」なんじゃないかと感じています。

でも、本の中で描かれるような美しい日常は、過去の旅や今の生活のなかにもある気がしていて。
記憶でも文章でも、大切に残していけたら、そしていつか静かな気持ちで振り返れたら、と思っています。

読書は瞑想。
この本を読んでそう感じたのは、いま目の前にある美しい日常を、静かに思い出させるからか。ここまで書いて、そう気づきました。

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