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江戸の読書会(2021/1/10)

江戸時代の人々にとって、学問は立身出世の手段でも、強制されたものではなく、自由に楽しめるものであったから、人々はあえて難しい書物に挑戦しようとした。

タイトルで「気になる!」と思って、Amazonで購入した、この本に書いてあったことです。

江戸時代の人々は、立身出世の試験のために、儒教を学んでいた同時代の中国や韓国の人々とは、違った本の読み方をしていたというのです。

生まれながらにして身分が定まっていた、士農工商の身分制社会だった江戸時代。
本を読んでも、仕事や日々の生活に影響はないけれど、読書会をする農民や商人が多くいたのだと。

この本で取り上げられる「江戸の読書会」は、「会読」と呼ばれるもの。

「会読」は、定期的に集まって、複数の参加者があらかじめ決めておいた1冊のテキストを、討論しながら読みあう共同読書の方法であって、江戸時代、全国各地の藩校などで広く行われていた、ごく一般的なものだった。

この会読は、明治時代に全国各地で生まれた、政治的なテーマを議論・討論をする学習結社でも行われ、自由民権運動を後押しをしたのだといいます。

本の中でも紹介されていて興味深かったのが、医師で啓蒙思想家の窪田次郎が同志19人と結成した、学習結社「蛙鳴群(あめいぐん)」。

この名前は、生まれ育った小田県にひっかけ、自分たちが泥に鳴いている有象無象の蛙に過ぎない、と大言壮語を戒めつつ、だか言うべきことはともにケロケロと声をあげるのだと言う強い意思の表明だった。

「蛙鳴群」の規約によれば、月一回、会員たちは昼間に集まり、午前10時から12時までの2時間の読書会で、「法律書会読」をし、午後からは「雑鳴」をする討論会を開くことになっていた。

ネーミングのユーモアからも、人々がこの読書会や学習結社を楽しんでいたのがうかがえます。

ただこの会読、明治維新が進み、近代日本以降の一斉授業による画一的な学習方法が広がるにつれて、消えていってしまったのだといいます。

会読の面白さや価値を現代に再認識して、やってみてもいいのでは?
というのが、本書の提案。

江戸時代の会読の場は異質な他者の意見を聞き、受け入れることによって、自らの独善的な偏見を自覚する場でもあった事は見直されるべきだろう。

遊びとしての競争であっても、また政治的な討論の場であっても、そこは自分とは異なる意見が飛び出し、自らの限界を悟り、視野を広げる場であったために、自己の「心術錬磨の工夫」の場となり得るものであった。

そうした寛容の精神を持った者同士の「縁を離れた」討論である限り、余裕を失う事はないだろう。そこには自ら笑うユーモアも生まれる。

あとがきのこの文章を読んで、今のインスタントな批判が飛び交うTwitterを思い出しました。

少し余裕を持って、好奇心から厚みのある理論や考察を知り、損得勘定なく議論することが、先々につながっていく。
実生活に直接役に立つノウハウや、目の前の批判は、急がばまわれなのではないか。

目の前の政治に疑問むくむく湧く今、そんなメッセージを感じとりました。

学習結社、はじめてみようかな。笑

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