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綾子と達也のはなし②|タモリと克実と市販ルウ

「綾子さんのつくるカレーは、どうしていつもチキンカレーなんですか?」

達也はキッチンに立つ綾子の背中に向かって話しかける。綾子は切った鶏肉に塩を振っているようだ。

「ん? タモリさんがカレーはチキンに限るって」

料理を始めた頃、いや、もっと前から、綾子はタモリの料理に絶大な信頼を置いていた。子どもの頃テレビ番組で見た、熟れた手さばきや腕前を目の当たりにし、出演者が「タモさんの料理はうまい!」と絶賛していた記憶が焼き付いているのだろう、と思う。三歳年下の達也は今や伝説の「笑っていいとも!」で、ときにタモリが料理について熱く語っていた様子なら、なんとなく思い浮かべることができた。「うどんにコシなんていらない!」は、ずっと頭の片隅に残っている。

「私がつくるのは正確なタモリレシピではないんだけど、マインドは引き継いでるつもり」

「なんですか、その言い方格好いいですね」

綾子は熱したフライパンで、一口大に切った鶏モモ肉にターメリックをまぶし、皮目から焼き付けていく。鶏肉からジクジクと透明な脂が滲み出して、そこを目がけすかさずクミンシードを投入する。クミンが澄んだ脂の中でじゅわじゅわと泡立ちながら踊り出すと、キッチンはたちまちエスニックな芳香に包まれた。

「この匂い好きです。僕」

達也は綾子と暮らしてから、初めて知ることがたくさんあった。カレーの匂いの正体がこのスパイスのクミンだったということも、缶ビール1本のカロリーは茶碗一杯のごはんとだいたい同じということも、卵は賞味期限が切れても食べられるということもすべて、綾子と話す中で教わったことだ。

綾子はクミンの香りをまとった鶏肉に、おろしにんにくと生姜、炒め玉ねぎを加える。炒め玉ねぎはレトルトパウチで販売されている便利なものだ。さらにトマト缶、赤ワイン、ヨーグルトを加え、タモリレシピにあるマンゴーチャツネの代わりに、冷蔵庫の隅にあったマーマレードジャムを入れた。あとはカレー粉と塩、砂糖、醤油で味を整えていく。

「ジャムがないときは、梅干しを入れるときもあるの。美容室で読んだグルメ雑誌にチャツネの代わりに使えるって書いてあったんだよね」

綾子も達也も本が好きだ。でも、キッチンにもこの部屋のどこにも、料理のレシピ本は一冊もない。綾子はとくに食べ物エッセイを好んで読んでいた。あらゆる料理の知識はそこから得ているのかもしれない。

「タモリさんのマインドはね、カレーに油脂は必要ないっていうところなの。炒め油もバターも要らない。目指すのはすっきりあっさりしたカレー」

「確かに、綾子さんのつくるカレーは胃もたれしない。逆に疲れが吹き飛ぶような、そんな感じがします」

うれしいな、と綾子が穏やかな笑みを浮かべ、またカレーの方へ身体の向きを変えた。

「でも、市販のルウでつくるカレーは、達也くんのほうがおいしいと思う」

目の前のカレーと対峙したまま綾子が言う。

「本当ですか?」

達也が読んでいた新書からパッと顔を上げだ。

簡単でおいしくて次の日も楽しめるカレーは大人の男女二人暮らしでも重宝するメニューである。達也もたまに自らカレーをつくるが、さすがにスパイスからというわけにはいかず、市販のカレールウを買ってくる。メーカーは問わず、中辛ならなんでも良しだ。

「大学の寮にいるとき、先輩があれこれ伝授してくれたんですよ。俳優の高橋克実さんのレシピらしいです」

「高橋克実? ショムニの?」

「ショムニ?」

「トリビアの?」

「え? トリビア?」

「ちょっと待って、たった三つしか歳違わないよね?」

「はい、そのつもりでした」

達也のその返答に、昭和と平成の境目に時空の歪みでもあったのかと、綾子は不思議を通り越して笑ってしまう。慌てて高橋克実を検索している達也が愛おしくてたまらない。
どちらも三十代に突入してからの三歳差はたいした違いを感じないが、子どもの頃の三年には大きな違いがあったなと、綾子はふわふわとした記憶をたどりだした。とくに女児の精神年齢は実年齢よりも高く、男児より興味の範囲も広くて妙に大人びているもののように思う。小学生の綾子は、当時でいうトレンディドラマを週に一度の楽しみにしていたおませな女子だった。「早く寝なさい」と諭されながらも、母親の隣で枕を抱えて視聴していたことが思い出され、ほんの少し苦くて微笑ましい気持ちが込み上げる。

「高橋克実さんカレーは、隠し味の種類が多いんですよ。ウスターソースにケチャップ、牛乳と醤油。あと、じゃがいもは別で茹でて、食べる直前にルウと併せるっていうのがポイントみたいです」

「ああ、だからいつも、達也くんのカレーのじゃがいもってホクホクでおいしいんだね」

「そうなんですかね。寮の先輩に感謝です」

「タモリさんはカレーにじゃがいもを入れないの。代わりにカレー味のマッシュポテトを付け合わせにして、それをカレーにぐちゃっと混ぜて食べるんだよ」

「へえ〜。本当にカレーのつくり方って多種多彩ですね。そのマッシュポテトもいつか食べてみたい」

「じゃ、今日は久しぶりにそれもつくろうかな」

手伝います、と達也は綾子と並んで、じゃがいもを洗い始める。目の前には一度切って食べた後の豆苗から、にょきにょきと新しい芽が伸び始めていた。これも達也は綾子と住み始めてから知ったことである。「豆苗は二回、食べられる」

まあるいちゃぶ台に黄色いマッシュポテトが添えられたチキンカレーと葉野菜の小さなサラダが並ぶ。達也が冷蔵庫の奥からよく冷えた缶ビールを持ってきて、二つのグラスに注ぎ込んだ。泡と液体の割合が完璧で綾子は小さく拍手する。二人は向かい合い「いただきます」と手を合わせた。そして、今日もいい日だったねと、グラスビールで乾杯をした。

「僕思うんですが、一人でいたときより二人のほうがずっと、生活してる実感があるんです。綾子さんがライフハックの達人だからかな」

そう言うと、綾子が違う違うと手を振った。

「達人なんかじゃないよ。二人分の知恵やアイデアが合わさると、カレーひとつつくるにしても、なんでも、ていねいに味わえる気がする。ただ流れていくだけの時間が少ないっていうのかな。表現が抽象的だけど」

綾子のつくったカレーを、まずはそのまま一口食べる。歯を入れると鶏肉がほろっと崩れて、複雑なスパイス香が鼻腔を抜ける。塩味と酸味のバランスが絶妙で、スプーンを持つ手がまた一口、また一口と忙しい。

「あの、綾子さん。婚約指輪のことなんですが…」

今日ずっと言いたかったことを達也が切り出した。

「本当は自分で選んだものをプレゼントすべきだとは思うんですが、綾子さんの一番欲しいものをあげたくて。一緒に選んでもらえませんか?」

綾子はカレーを食べる手を止める。代わりに汗のかいたグラスビールを手に取り、話し始めた。

「婚約指輪はいらないよ。代わりにずっと使えるような腕時計が欲しい。達也くんとお揃いで」

宝石が煌めく婚約指輪には夢があると思う。でも、引き出しにしまいっぱなしになる未来が想像できるから、それならいつも身に着けていられるものがいいのだと、綾子は理由を話した。

「わかりました。明日、時計を見に出かけましょう」

綾子に話して嘘のように身体がふわりと軽くなった達也は、例のカレー味のマッシュポテトをソースに混ぜてみた。さらりとしていたカレーが一変、もったりと、スプーンにのしかかる重力が増す。食べる前から、これはおいしいと直感が働いた。

「綾子さん、タモリさんは天才ですね」

「だよね」

綾子も同じようにして食べ始める。

「マッシュポテトが合わさることでコクが出る。意外なんだけどスパイスって、どう頑張っても味にコクだけは出せないんだって」

「前から気になっていたんですけど、綾子さんのそういう知識って、どこから得てるんです?」

首をかしげる綾子に、達也は「そういうところも好きです」と微笑んだ。


二話目は「mg. vol.2」になぞって、「カレー」をテーマに書きました。タモリさんがつくる料理って、なんだかどれもおいしそうに見えますよね。

三話目はちょっとmg.からは外れて「餃子」をテーマに書きます。12月中旬に更新予定です。

よろしくお願いします。

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