【プロテストが激化するコロンビア大学】卒業旅行で見たイスラエルとパレスチナ
コロンビア大学で続くプロテストで逮捕者300人以上
2023年10月7日より続いているイスラエル・パレスチナ間での戦争。そして、2024年4月17日を皮切りに、我が母校であるコロンビア大学の学生がキャンパス内にテントを張り、パレスチナに住む方達の人権を訴え、イスラエルに攻撃をやめるよう呼びかける、Pro-Palestine protestを行っている。5月1日現在で、キャンパスに滞在する抗議者は1,000人を超え、300人以上が逮捕されたと言われている。
友人から話を聞く限り、キャンパス周辺は封鎖され、家が封鎖区域内にある方は帰宅難民となり、授業もキャンセルまたはオンラインに変更、あと2週間後に迫る卒業式も、どうなるかわからない状況とのことだ。
イスラエル・パレスチナへの卒業旅行
私は、今からちょうど1年前。戦争が始まる半年ほど前に、コロンビア大学の卒業旅行として、イスラエル・パレスチナを訪問した。(2023年5月4日〜11日)イスラエル政府と大学が協力をして、毎年コロンビアビジネススクールの2年生向けに行われているプログラムで、1週間ほどで両国を訪問、現地のガイドや有識者、住民から、暮らし・ビジネス・歴史・紛争への思いについて聞くことができる、非常に貴重な機会であった。
私自身、どちらかの立場で発言するには、まだまだ知識や多様な視点が足りないと自覚しているし、誰かを説得したい気持ちも全くない。ただただ、戦争が終わり、イスラエル・パレスチナ両方の方々が安心して、身の危険を感じず過ごせる日が来ることを願うばかりだ。しかし、現地で見たもの・聞いたことは、考えさせられる内容が多く、今回のコロンビアでのプロテストをきっかけに再度心が痛んだので、あくまでも私自身の経験をベースとして発信してみたいと思う。
イスラエルの暮らし
まず、旅行の最初に降り立ったのはテルアビブだ。テルアビブは本当に海が綺麗で、街並みはヨーロッパと中東が混ざったオシャレな雰囲気。東京で生まれ育った私だが「あ、ここなら住めるかも」と思うくらい住みやすそうな都市だった。
その後訪問したエルサレムは、嘆きの壁や岩のドームといった宗教聖地を中心に街が成り立っているので、テルアビブと比較すると昔の趣が残っている。どちらも危険な雰囲気は全くなく、夜であっても友人同士であれば気軽に出歩ける環境であった。
パレスチナの暮らし
比べて、パレスチナはどうだろう。(私が訪問したのはガザ地区ではなく、ヨルダン川西岸地区である。)イスラエルの方から聞くパレスチナは「電気が使える時間が1日のうちで決まっていて、産業もなく、とても貧しく住めたものではない」という話であった。しかし、私の印象は少し違った。街に入った途端、スターバックスを模倣したかのようなカフェが立ち並び、市場では多くの方が買い物。聖地ベツレヘムや有名アーティストの作品があるので、観光が重要な資源であり、英語で声をかけてくる客引きの方もたくさんいた。(もちろん主要観光地の周りだからだろうと言うことは理解している。)メディアで見るパレスチナ、イスラエルの方から聞くパレスチナとは似ても似つかない印象で、「これが紛争の当事者国?」と素直に驚いたのを覚えている。
突然の「銃声」と充満する「催涙ガス」
そんな中で、ガイドのもと、嘆きの壁を見ているときに、どこからともなく複数回銃声が聞こえた。その直後、急に周りがぼやけ、目から涙が止まらず、喉が痛くて苦しくなった。周りの友人も全く同じ状況だとわかったときに、催涙ガスが充満していることに気がついた。パレスチナのガイドは「イスラエルは新人軍隊の練習のためだけに無意味に催涙ガスを撒く」と言い、イスラエルのガイドは「ハマスによる攻撃があったときに、催涙ガスを撒いて牽制する」と言った。その後のニュースで、最初に聞こえてきた銃声はヨルダン川西岸地区にある難民キャンプにて、イスラエル軍が発砲したものだと知った。パレスチナサイドは「罪のない一般人と子供が2人殺された」と言い、イスラエルサイドは「潜伏しているハマスを見つけたので殺した」と言った。
パレスチナのガイドの言葉が印象的だった。「私は、パレスチナの難民キャンプで生まれ、今まで育ってきた。自分もハマスのようなテロ組織や、意思もなくイスラエル側に攻撃を仕掛けるような市民には、反対だ。しかし、自分の家がパレスチナ、しかも難民キャンプにあるだけで、自分も攻撃的なグループの一員だと勘違いされる。」なんと反応するのが正解なのか、わからなかった。
軍服を着ていないパレスチナ人
その後、イスラエルへ戻り、PIP, Inc. (Palestinian Internship
Program)を訪問した。PIPはパレスチナの起業家やインターンシップを探している学生を支援するプログラムを提供しており、すでに10年運営されている会社だ。そこで、パレスチナの方のビジネスピッチを聞いたあと、私のコロンビアの同級生であるイスラエル人がコメントをした。「軍の制服を着ていないパレスチナ人に、人生で初めて会った。」彼はすでに30代半ばであるが、アメリカへ来るまでは、ずっとイスラエル軍の一線で働いていた。「イスラエルとパレスチナがこうやって交流できる機会が増えればいいと思う。」と言っていた彼の中にも複雑な気持ちがあったのかもしれないが、このコメントがずっと頭に残っている。
私は旅を通じて彼と親しくなり、旅の後半で思わず聞いてみた。「ねえねえ、答えたくなかったら答えなくていいんだけど、この旅を通してもっとイスラエルとパレスチナ両方のことを理解したいから聞いてもいいかな?イスラエル軍を非難する人も世の中にたくさんいるし、繰り返し起こる紛争の中で辛いこともあるだろうに、なんで他の仕事ではなく、イスラエル軍で働いていたの?」心優しい彼は、「もちろんだよ、聞いてくれてありがとう」と言いながら、こう答えた。「僕の家は、おじいちゃんもお父さんもイスラエル軍で働いていて、イスラエルで初の線路建設に関わったんだ。他にも国の発展のために、たくさん働いている姿を見て、とても尊敬しているし、僕もそんな風に貢献したいと思った。」
ホロコーストを連想させるテロ組織ハマス
旅の最終日にはエルサレムにあるYad Vashem(ホロコーストの犠牲者追悼の記念館)を訪れた。残虐な写真や描写の中には、正直見ていられないものも多く、ガイドと参加者で行ったリフレクションでは、思わず泣き出す友人もいた。ディアスポラによってバラバラになった民族、600万人もの人がユダヤ人というだけで犠牲になったホロコーストという虐殺という歴史的トラウマ(トラウマと表現するだけでは足りない)から「ハマスに歴史を繰り返させてはいけない」と言うイスラエルガイドの気持ちが痛いほどにわかった。
「花束を投げる男」が現実となる日まで
これら全ての背景には、歴史・宗教・アメリカの関与などの全てが複雑に絡み合っている。特に、アメリカは過去10年間で38億ドル(5,700億円弱)の軍事援助をイスラエルに与えており、イスラエルの武器のうち70%がアメリカから輸出されていると言われている。コロンビアでのプロテストの争点の1つも「アメリカ政府はイスラエルへの支援をやめるべきだ」という主張であり、アメリカに住んでいて大統領選挙が迫っている身としては、対岸の火事だとは絶対に言っていられない。歴史・宗教に関しては、同級生やガイドさんとたくさんディスカッションをして、自分なりの理解はあるのだが、私個人の意見であるためここでの言及は避けたい。
最初に申し上げた通り、この記事は誰かの立場を擁護するものではない。しかし、私のレポートを読むことで、イスラエル・パレスチナ紛争について考える1つのきっかけになってくれればいいなと思っているし、私も引き続き勉強をして視点を広げていくつもりだ。
私と一緒に旅行へ行ったことのある友人は知っていると思うが、私は普段お土産をほとんど買わない。だが珍しく、今回のイスラエル・パレスチナ旅行では、自分自身のへのお土産として、バンクシーの「花束を投げる男」のマグネットを買った。イスラエルとパレスチナを分断する壁の奥から投げられるものが、手榴弾や催涙ガスではなく、花束になる日を祈って。どちらの国にとっても、一刻も早く平和な時間が訪れることを願いたい。
各SNSやインタビュー記事などはこちらから
https://lit.link/en/yukikokimura