カネを積まれても使いたくない日本語/内館牧子#13
「カネを積まれても使いたくない」
タイトルからしてあまり品があるとは思えないが、一体どのような日本語のことを指しているんだという興味本位で手に取った。
内館牧子といえば、2000年に大阪府知事に就任した太田房江が、大相撲大阪場所での大阪府知事賞の贈呈を土俵上で希望したことを、日本相撲協会が相撲女人禁制の伝統を理由に拒否したことに関して一貫して協会側を指示したことでも記憶に新しい。
この本を手に取った時、株式会社メディアジーンという会社のWebライターの採用待ちだった。
もうかれこれ6年前のことである。
私は昔から稚拙ではあるが文章を作り、文字を書くことが好きだった。小学生の頃からパソコンの早打ちゲームをしまくって、wordで何やらよくわからない文章を書いていた気がする。いやwordじゃないな、一太郎だ。
それから義務教育を受け、とりあえず日本語は習得したはずだ。日本語?国語力?なのか?
ライターの採用待ちをしている間、自分の日本語の使い方にいつか恥ずかしい思いをするのではないか、とふいに不安に思った。
敬語や謙譲語、丁寧語がどうこういう話ではない。「超ウケる」「全然大丈夫」「食べれる」といったいつの間にか定着してしまった、いわゆるこれが”カネを積まれても使いたくない”言葉なのだろう。
ライターに採用されたあとのことや、将来の自分の姿を想像すると背筋の凍る思いがし、すぐにカウンターへ清算に向かった。
内牧氏は本書の構成を立てるため、昨今の言葉を考えていた時、次の心理が大きく影響していると語っている。
1.変化を許容する
例えば「ら抜き」。
「生きられる」「食べられる」「出られる」と言わねばならないことを「生きれる」「食べれる」「出れれる」が多用される。
2.過剰なへり下り
「〜させて頂く」の多用。
また、「アーティストさん」「公立さん、私立さん」など「さん」の多用。さらには「ご住所様」「患者様」「オーナー様」等、相手の何にでも「様」をつけること。
3.言質をとられたくない
明確に断言せず、ぼかして言う。
「〜みたいな感じ」「〜ですかね」「〜かな」「ある意味」等々、数多い。手紙に(笑)を入れたり、メールに絵文字を入れるのも、この一種である。
本書では市民権を得た新語として「マジ」「ヤバイ」「ぶっちゃけ」「イケメン」なども紹介している。
読んでいると冷や汗が出てくるほど心当たりがある。ありまくり。いやこの言葉もどうなんだろ。
そしてこの本を読んで人と話すほど、その人の話す言葉も気になってくる。
更には、そういった曖昧な表現をしてしまう原因は日本人の文化なのだろうと推察した。
相手を気遣い過ぎるがために、丁寧になりすぎた結果、言葉の事故が起きてしまう。
断定できない物の言い方が、昨今のコミュニケーション能力の低下を物語っているようにも思う。
しかしSNS上では、その曖昧な表現や、新語を使うことでトラブル回避になっている部分はあるはずだ。
では、誰が言葉の文化を定義付けたのか。
「市民権を得た新語」も、100年後には日本の言葉の文化となっているかもしれない。
というより、今現在使っている言葉の数々も、そういった変遷を経て定着していったものだ。
「新しい(あたらしい)」という言葉も「あらたしい」が正しい読み方である。
しかし内牧氏の「許容することに慣れたら怖い」という考えも理解できる。
美しい日本語を、正しい使い方で受け継いでいく必要もある。
言葉は意思伝達の重要なツールだ。
言葉ひとつで相手を不愉快な気持ちにさせたり、傷つけたりしてしまう。
だからといって、慣れた言葉を避けて友達と話すとなると、それはそれで苦痛になるかもしれない。
本書は自身の日本語の使い方を見直し、そして説教してくれる一冊である。
「カネを積まれても使いたくない」という境地にまでは至らないが、使いたい日本語の数々と日本語の美しさを見直す一冊である。