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第二回中堅女性作曲家サミット~後半~

JWCMは、Japanese Women Composers Meeting、日本語で女性作曲家会議の略称です。第一回中堅女性作曲家サミットを機に2018年夏に発足しました。この記事は、2019年9月2日ハーフ・ムーン・ホールにて開催したJWCM主催「第二回中堅女性作曲家サミット」の書き起こしです。7名のパネリスト(一名欠席)との合議による加筆修正が含まれます(編集・わたなべゆきこ)。

パネリスト(敬称略)
牛島安希子桑原ゆう小出稚子樅山智子森下周子山根明季子(事前質問のみ参加)、渡辺裕紀子渡辺愛

前半記事はこちらから

「音楽とわたし」「作品とわたし」そして「社会とわたし」

(森下)わたしのイギリス時代のメンターが中国系オーストラリア人だったんですけど、先日とある記事が送られてきたんです。オーストラリアのオペラ界にはびこる女性差別問題に対して、クリエイターたちが立ち上がったっていう。そこでひとつのイシューになっていたのがプッチーニの「蝶々夫人」。みなさまご存知、「イタリア人男性」による、「アメリカ人男性と日本人女性カップル」の悲恋の物語ですね。

「プッチーニの「蝶々夫人」「トゥーランドット」などは、オリエンタリズム主義者(西洋における東洋趣味)の悪趣味として分かりやすい例だ。(略)特に女性、また東洋人(非西洋人)の身体に対するバイオレンスが、このオペラという表現フォームでは相応しいテーマとしてみなされている。それが問題であると男性は気がつかないのだろうか。

(樅山)蝶々夫人といえばザ・オリエンタリズムですもんね。

(森下)そうなんですね。今まで特に何も考えなかったけど、ストーリーだけ切り取って見てみると確かにひどい。

(樅山)でもそれが最近の話っていうのが酷いね。だって、蝶々夫人におけるオリエンタリズムというのは随分前から議論されていたわけじゃないですか。それが2019年になって出てきたのか。

(森下)オペラ関係の大きなカンファレンスがオーストラリアであって、そこでメーリングリストから女性クリエイターだけが外されたり、Prof. 〇〇(〇〇教授)という敬称も女性だけつけてもらえなかったり、シンポジウムにも登壇できないとか、いろいろ明らかな差別があって、それが引き金になったようです。今年(註・2019年)の4月とかなのかな。それで女性側がもう我慢できない、みたいな。

(樅山)なるほどね。

(ゆきこ)これ森下さんの質問に関係していますよね。

50:50ポリシーについてどう思うか聞きたいです。わたしは作品をつくるとき性別(や国籍やプロフィール的なこと)は気に留めません。でも「女性だから」「日本人だから」オファーされる、されないといったことは身近にいっぱいある。このことをなぜ聞きたいのかというと、ゆうちゃんの「音楽と自分」、山根氏の「社会と自分」、これらの質問を自分に問いかけたとき、同じ場所からことばが出なかったんです。何を考えてどういう曲を書くか、と、社会のなかでどういう役割を担うのか…… 50:50ポリシーや権力は後者ですよね。皆さんはどうですか?この二つは一致しますか?

(森下)うーん、ジェンダーというか、50:50ポリシーは一例なんです、わたしの場合。ようは「作家として社会とどう関わりますか?」っていうことを皆に聞いてみたかったんです。

(ゆきこ)社会と関わる?

森下)50:50って「作家の性別で出品者を決めましょう」っていう取り組みですよね。そうなると『性別>作品そのもの』なわけでしょ?おかしいといえばおかしい。すごく良い作品でも「男性だから」選んでもらえないとか、逆にそこそこでも「女性だから」選ばれることがでてくるわけだから、極論ですけど。

じゃあなんでおかしくないかというと、文脈ですよね。50:50がムーブメントにならざるを得ない歴史背景があって、そういう社会構造が芸術評価にも関係している。横軸にしても、自分で作品をつくる、発表する、はい終わりじゃなくて、パフォーマーがいてオーディエンスがいてソサエティがあって、そのなかで誰がどういう役割を果たすのかっていう。自分ひとりで成立しているわけじゃない。

(ゆきこ)なるほど。それに対して、桑原さんの質問は作品発表後の心境について。いわば「自分と作品との関係性」の話ですよね。

私が皆さんに聞いてみたいのは『作品発表後の心境』です。というのも、私の場合、演奏の良し悪しに全く関係なく、かなしい、虚しい気持ちになって、ほぼ毎回落ち込むからです。燃え尽き症候群的なものもあるかもしれないけど、それだけじゃないと思います。

(桑原)小出さんが言っていたように、「作品を発表した後の反応がなくて辛い」みたいなことに近いのかな。私の中では、「音楽とわたし」ということと、「作品とわたし」というのは、完全に別の話なんですけど。

(森下)「音楽とわたし」「作品とわたし」。どう違うの?

(桑原)作品は「自分が作ったもの」に対して、自分自身がどういう関係性でいられるか、ということだと思うんです。さっきお話した個展の際に考えたことなんだけれども、「作品を発表するってどういうことなんだろう」と考えた時に、作品は弾いてもらって、聞いてもらった人の頭の中で完成するものなので、私がその作品を発表する上でどんなに頑張ったとしても、最終的には受けとる側の「中」で出来上がるものなんです。最後の最後の部分は、どうしようもない、自分はどうすることも出来ないんです。この間の個展が終わった後、そのことを無性に感じて「ポカン」としてしまったんです。それって何でなんだろうって思って。

(樅山)最終的に聞いた人が何を受け取るかをコントロールできなかったことが辛かった?

(桑原)それも自分ではちょっとわからなくて。

(樅山)聞き手の内部で何が起こったのかがわからないといういうことなのかしら。

(桑原)うーん。そうなのかもしれない。なんか、凄く距離を感じてしまったんですよね。作ったものって何なんだろうって。私は、作品を楽譜に書きとめること、楽譜を書くことが凄く好きなので、それを音にすること自体、必要なのか、必要でないのか、っていうことも考えて。そんなに発表することが辛いんだったら、書いて終わりでいいじゃん!って思っちゃったり。

(樅山)楽譜さえあれば淋しくないっていうことはないの?

(桑原)私は楽譜を作った時点で燃え尽き症候群になることはないんです。それを書き上げた時点では、喜び、というか、充実感で溢れているんだけれど、作品を音にするとその初演の日は嬉しいんだけど、次の日くらいから、「がーん」って落ち込んでしまう。だから、そんなに嫌なら発表しないで良んじゃないかって本気で思うくらい。でも、音楽って本質は「祈り」にあるはずだし、音楽は聞かれるものなんです。音楽自体が聞かれたがっている。だから、音にしなければいけないし、それが作曲家の責任なんだろうと思うんだけど。それに対して、まだ全然答えは出ていないんです。

(ゆきこ)楽譜が音になった時の、イメージがリアルになったときの喪失感わかる気がします。愛さんはどうでしょうか?

(愛)例えば、わたし即興をしていて思うんです。自分が発している音、そしてそれを聞き手が受け取っている感覚って、絶対ずれがあるんですよ。記譜された音楽にもあると思うんですけれど、何が鳴るか最終的にはわからないわけなんです。即興だと、音に出してみて「あ、こんなの出ちゃった」っていうことの連続な訳です。終わって、お客さんに聞くと色々な反応があって、面白いなって思うんですけれども、全てがフィックスした作品とその辺りは全然違うんですよね。だから、永遠にわからないんです、お客さんの気持ちは。

そういう意味では祈りに近いかもしれないです、自分の手の内には端からない。でも、それはそれで良いかなって思うんです。自分が発した音楽を自分が理解していなくても良いんじゃないかって。うまく行ったとか、あそこが失敗したっていう細かい反省はあっても、お客さんの内に宿ったものに関して、そこまで憂慮することじゃないんじゃないかって、個人的には思うんです。ポジティブでもネガティブでもない、ただそこにある、という感じ。

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(ゆきこ)そもそも同じものを同じように見たり聞いていないですもんね。

こうやって考えると「作品と自分の関係」も人それぞれだし、先ほど森下さんから出た「作家や作品をどう見るか」となると、その社会のあり方と共に作品自体が内包しているものによっても、変わってくるんでしょうね。

(森下)そうですね。今年はあいちトリエンナーレの問題もあって、日本におけるアートの役割みたいな議論がいっぱい起きてましたしね。じゃあ自分は作家としてどこにいるんだ、何ができるんだっていう。

(ゆきこ)作品と社会の関係について、例えば、さっき愛さんが言っていたような「母の日だからお母さんに作品を送る」みたいな個人的なものと、樅山さんのように社会的な枠組みの中で創作をするって、社会に与える影響とか関係性ってきっと違うと思うんです。牛島さんは、どうですか?今話題が二分しているように思うんですけれども、まず50:50ポリシーについて、これは主に「社会との関係性」の話。そして、作品発表後の心境とかっていうのは、「作品(音楽)との関係」。まず後者について聞かせてもらえますか?

(牛島)パブリックを意識して作曲をしているっていうのは、さっきお話させてもらった通りなんですけど、自分の場合は楽譜を書くだけで終わらせない、それがどう届くか、というところまでが私の仕事だと思っています。ちなみに私にとってパブリックというのは、顔が思い浮かべられる人の範囲ですね。

(ゆきこ)燃え尽きることについては?

(牛島)燃え尽きるのは、いつも燃え尽きるんです。でも私たちがやっていることって、そもそもレスポンスがないものですよね。50年先とか100年先に音楽の専門外の人たちが理解する、身近に感じる、そういう音楽を書いているんじゃないかと思うんです。

(森下)「50年先とか100年先にやっと理解されるものを目指している。」それ、みなさんどうですか?

(小出)私、全然ない!

(桑原)私はすごくある。

(樅山)私は100%そっち。いや、というか、もちろん、今を生きる人たちに届いて欲しい思うと同時に、まだ生まれていない存在や、ここにはいない存在たちとも共有したいと思って書いている。

(牛島)未来を見て書くっていう視点、ありますよね。

(樅山)燃え尽きる話で言うと、私も凄く感じるって言うか、燃え尽きるというか消費される感じがあるんです。特に、色んなところで色んな人と交わって作品を産み落とすじゃないですか。でも、産み落とすだけで成長を見守ることはできない。そして、また次の土地で恋愛して子どもを作らなければならない。

(小出)それって、本当大変なことだよ。

(樅山)そうなの!私の創作方法がまぐわいだから、仕方ないと思うんだけど、まぐわいまくって子宮ボロボロみたいな!もうまぐわえない・・・みたいな。

(愛)消費されたって感じるのは、どの辺りなんでしょうか?

(樅山)産み落としたものが、育つまでの場を作れてないっていうところなんだと思います。一緒に育ちたいじゃない、親としては。

(小出)再演とかそういうこと?

(樅山)再演っていうこともあるだろうし、自分が目指しているものは、生活とか、人々に属するものを生み出す媒体になりたいっていうのがあるので、関わりから生まれた音楽が人々に受け取られて、私がいなくなっても、更に違う形でその音楽が育っていったりっていう、何かが育っていくきっかけになってほしい、という希望はあるんです。

(愛)その成功例っていうのは、何かあるんですか?

(樅山)幾つかトライしている方法はあるんですけれども。例えば、私が関わったある地域の人々が、「智子がいなくなっても、自分たちでバンドを組んでこれからも音楽を続けていくよ、作曲の方法もわかったし、これからはツアーもして経済活動に繋げるんだ、凄く人生変わったよ」って言ってくれることもあるんですけれども、実際に私がいなくなるとなかなか継続が難しいんです。みんな日常に戻っていくというか。だから、生まれた音楽が育つところまでデザインしていかなきゃいけないっていうのは、考えていて。そうじゃないと、自分が消費されてしまう。

(牛島)さっきの話に戻ると、樅山さんが50年先100年先を考えているっていうのは、音楽がその土地で育って馴染んでいくのに、そのくらい年月がかかるという意味ですよね。

(樅山)土地に馴染むのかわからないけど、みんなで産んだものが、形を変えて生き続けていく、それを見届けたいって思うんです。一緒に自分も成長したいっていう気持ちがあります。

(ゆきこ)なるほど。色々な意見をありがとうございます。それではそろそろ、質問の時間に入りたいんですが。

(牛島)最後に山根さんからの質問を。

(ゆきこ)そうでした。今日事情で来られない山根明季子さんからの質問を最後にしたいと思います。


権力と音楽

【山根明季子からの質問】
「私から皆に聞きたいことは権威を背負うことについてです。大学教員や審査員が男女50:50じゃないのは偏ってるよねという話が内々であって、もしここにいる皆が権力を手にしたとしたら、できること、やりたいことを1つ教えて欲しいです。手にしたくない、もし手にしても拒否したい、関心がないなどの場合は、権力とは関係ないところでやりたいことを何か1つ教えてほしい。」


(桑原)権力ってなんでしょう?

(森下)この間山根氏に聞いたら「ラピュタの飛行石みたいなやつ」って言ってた。

(ゆきこ)飛行石??

(森下)持ってるだけで超越存在になれるもの、そうやって周りから扱われるもの?とかかな?

(樅山)権力って、ある意味私たちは既に持っていると思うんですよね。作品を発表する機会があるという時点で、既に、私たちは特権的な立場にいると思う。

(牛島)そんなこと考えたことがなかった。権力っていうと、もうちょっと政治的なものをイメージしていました。国の予算を動かすとか。

(森下)あくまで勝手な解釈なんですけど、話してた感じ、山根氏は権力を持っていない側の人間として自分を捉えていて、それ(=飛行石)が手に入ることがもしあったとしたら、どうしたら良いんだ?何が起きるんだ?みたいなことかなって。

(愛)彼女自身が権力に対する警戒心とか嫌悪感みたいなものを抱いているっていうことですよね。偉くなることが良いことなのか、とか、そういう。例えば、女性の地位が向上して、権力が分配された時に、何がどうなるのか気になるとか。

(小出)単純にキャパオーバーになるんじゃないかって言ってましたね。例えば、女性の作曲家と男性の作曲家、50:50にしましょうって言ったときに、今だと女性の作曲家のほうが圧倒的に数が少ないので、みんなガンガン出なくちゃいけなくなるよって。

(樅山)えー、それって権力とは違うんじゃない?女の数足りないから、とりあえず顔だして、みたいな。セクマイ(セクシャルマイノリティ)足りないからちょっと参加してよ、とか、よくあるじゃないですか。

(小出)いやでも、彼女が言っていたのは、それ以上に自分たちの権利が認められたら、権利もそうだけど、物凄く責任や仕事も振られるようになるっていうこと。

(森下)「権力を持つ」っていうのは枠組みを作る側のポジションに立つということだと思うから、大変だから嫌だ、責任取るの嫌だし、、、っていう気持ちにどうしてもなっちゃう。でもその反面、教育にしても男女不均衡にしても、誰かがそこを引き受けないと変わることってないよなあと思うんですけどね。

(裕紀子)ヨーロッパではすでに女性が大事なポジションについたり、発言を求められたりしていますよね。山根さんが危惧していたようなことも実際にはあると思うんです。物凄く委嘱が増え過ぎてしまって、つぶれていった友人もいます。権力を持つ、というか、もともとあるべき権利を持つって、今まで放棄していた責任も一緒に背負いこむことでもある、簡単なことではないですよね。

※2018年に行った第一回目の中堅女性作曲家サミットの様子は、以下のリンクよりご覧いただけます。

後半
10【小出稚子×牛島安希子×樅山智子が語る~パネリスト紹介】
11【小出稚子×牛島安希子×樅山智子が語る~その①】
12【小出稚子×牛島安希子×樅山智子が語る~その②】
13【小出稚子×牛島安希子×樅山智子が語る~その③】
14【小出稚子×牛島安希子×樅山智子が語る~その④】
15【小出稚子×牛島安希子×樅山智子が語る~その⑤】
16【小出稚子×牛島安希子×樅山智子が語る~その⑥】
17【小出稚子×牛島安希子×樅山智子が語る~その⑦】

2020年4月JWCM初イベント企画、キクラボ01についてはこちら
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