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心の声に耳を傾け続ける。

今日「note1周年おめでとう」のお知らせが届いた。あれ、始めたの1月4日だったよなと思い遡ったら、やはり1月4日だった。そっか、明日だと366日目になっちゃうからかな。

はじめて書いたのはこちらでした。

やろうやろうと思っても、どっかでやらないと永遠にやらない!と思い、友人との待ち合わせまでの間、新宿の駅中のカフェで、急きょ開設したアカウント。思ったことをつらつらとスマホで打ち、見出し画像の存在も知らないまま投稿。

いきなり投稿したって誰も見てくれないだろうなと思っていたら、スキがついてびっくり。
嬉しさと同時に、「え、こんなに簡単に反応もらえるものなのかな」と不思議にも思った。

案の定、たくさんスキがついたのは初回だけで、それからしばらく、なかなか反応がない日々。


なんだろな、どうしたらいいかわからない感はあったかな。

大っぴらには出さなかったけど「読んでもらいたい」という気持ちがあったことは事実。でも何をどう工夫、改善したら読んでもらえるのか、方法がわからないかった。だから苦しかった。

でも「続けてみなきゃわからん」というのが私のモットー。どこにどう進めば道筋が見えるのかわからなかったけど、とりあえず進むことを選んだ。

続ける中で存在を知ったコピーライターの阿部広太郎さん、そして阿部さんの「超言葉術」を読んで書いた記事が、多くの人に読んでいただけて。

この記事を読んでいただけたことからご縁が生まれ、今も続いている方もいる。

この本、そして本を読んで書いたこの記事は、いつも立ち返る場所であり、noteを続けていく上での突破口にもなった。

「苦しい」という感情に陥ったとき、「健全な苦しさ」なのか「不健全な苦しさ」なのかで、扱い方がずいぶん変わってくるように思う。

たとえば。文章がうまくなりたい、誰か一人でもいいから届けたい、という気持ちがあるならば、その過程でうまくいかないことに苦しむのは必然。
何をするにしても、はじめからうまくいくことはない。「こうしたい」があるからこそ生まれる苦しさは、捨てないで向き合った方がいい。


でも「こうしたい」に直接関係ないことで苦しんでいるなら、その苦しさは捨てる。切り離して考える。

たとえば。
以前私は、子どもや教育に関する記事を中心に書いていた。

初めは「書きたい」だったのが、自分でハードルを上げ、「書かなきゃいけない」「書くべき」という気持ちに移ろっていった。

でも、だんだん書けなくなって、苦しくなって。この苦しさは必要か?と考えた。
「こうするべき」に縛られて、窮屈になっている。そんな状態じゃ、いい文章は書けない。誰かに届くことなんてない。


じゃあこの苦しさはいらない。
テーマには縛られずに、自由に書こう。

それを続けていくうちに、子どもや教育に関することも書きたいという気持ちが、また戻ってくるようになった。


いつだって「こうしたい」という意志が全て。それに照らしあわせて、その感情(苦しさ)は必要か、それとも不要かと、見極めていく。

私は、いい文章が書けるようになりたい。
取り繕わず、見た目だけきれいにせず、借りてきた言葉でなく、嘘のない、芯のある、自分のどまんなかに届くような言葉で、文章を書きたい。

そんな文章は誰かのどまんなかにも届くのだと、信じたい。


note2年目の私も、どうぞよろしくお願いします。




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