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つくることは心を元気にする

年始早々にコロナに罹り、外に出られない日々が続いている。症状がひどく出なかったため、ほぼ起きていられた。テレビ、Netflix、本、漫画、Twitter。料理を作ったり、久しぶりに湯船に浸かったり、いつもより長く寝たり。何かやることを見つけても、なかなかに時間をもてあます。「暇だ」と思うこと自体が贅沢だとわかっているけれど、それでも暇だと思ってしまう。

そんなきっかけで、noteに向かう時間が少し増えた。

書いていると、やっぱりいいな、と思った。この「やっぱりいいな」と思うタイミングは定期的にやってくる。たくさん書く→頻度が落ちる→久しぶりに書く→やっぱりいいなと思いまた書き始める…という具合に。

書くの楽しいな。書くの好きだな。

シンプルだけど、久しぶりに戻ってくるたびこう思う。更新頻度が落ちると「note好きです」「文章書くの好きです」なんて言っていいのかなぁ…と思ったこともあったけど、ちゃんと好きだな、私、文章書くことが。

ここ数日外に出られないことで、不可抗力なこととは言え、やっぱり少し気持ちが下を向くことはあった。仕方ないけど、家にいなきゃいけない決まりだけど、周りは「長いお正月休みだと思って」と優しいけど、こんなにゆるゆると過ごしてていいのかなって。何もしていないじゃん、どうしようって。

そんな中でnoteで文章を書くと、少し心が落ちついた。あくまで趣味の範囲。日常のエッセイ。ゆるゆるしていることは変わらない。でも「少なからず何かをつくった」という事実が、少し心を落ち着かせる安定剤になっていたように思う。つくることが偉いわけじゃないし、誰に貢献できているわけでもないけど、「あ、なんか大丈夫だ」という不思議な安心感。

人間は「つくりたい」生き物なのかもしれない。仕事でも、趣味でも、なんでも。料理だって「つくる」ものの一つ。コンテンツを消費し続けて悶々とした気持ちが、簡単な料理を一品つくった後は少し上向いていたりする。

適当に書けば、適当に料理をつくればそう思うのかと言えばそうではなく、そこには何らかの「意志」が必要なように思う。こういうふうに書きたいなとか、こういう味付けにしてみようとか。具体的でなくてもいい、ちゃんとしていなくてもいい。何らかの意志をもち実行したものは「つくった」という達成感が感じられる。

もっともーっとつくっている人からすると、私は「つくる」の端くれにもいないかもしれない。誰かがつくったものを享受している時間のほうがきっと長いだろう。

それでも「つくるって楽しい」と思えた気持ちはほんとうだから、私もささやかなつくり手なんだって、勝手に自負することにする。

長らく「0→1を生み出すことは苦手だ」と思ってきた。でも「つくるって楽しい」の気持ちと照らし合わせると矛盾していることに気づく。こうやって文章を書くことだってある意味「0→1」なのだから、苦手と思ってきたけど、ちゃんとやってるじゃないか。そして楽しいじゃないか。

思い込みは捨てて、自分なりの0→1をこれからも生み出したいな。




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