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その言葉、なかったことにしない。
大切な人からもらった、大切なメッセージ。いくつかのそれを、机の前の壁に貼っている。壁を傷つけぬようマスキングテープで直貼り。机に向かうと、いつもそのメッセージが目に入る。
そのメッセージをもらったとき、とても心に染み入った。今も目に入るたび、くりかえし心に染み入る。得した気分だ。
いい言葉は何回ふれてもいい。ふれるたびその言葉の濃度が自分の中で濃くなり、自分の一部となっていく感覚がある。
昨日自分のnoteをぱらぱらと見返していて、思った以上に書いた内容を忘れていることに驚いた。タイトルを見て、概要は思い出せる。でも一文一文は思い出せない(あたりまえかもしれないけど)。自分の言葉ながら、読むと改めてハッとさせられるものもあった。過去の自分に学ぶ。
それほど「忘れる」ということとは、常に隣り合わせなんだろう。何かを得る、覚えるよりも、忘れていることの方が圧倒的に多い。忘れることに抗おうとしても、「忘れたくない」という思いだけでは、脳は言うことを聞かない。
自分が発した言葉を覚えてない。それはある意味、無責任とも言える。忘れたからって、誰に迷惑がかかるわけではない。誰かから責められるわけではない。でも誰より、その言葉を発した自分自身が寂しいのではないだろうか。
きっと残したいという思いがあって、その言葉を発し、書いたのだろう。でも忘れてしまったら、残したことにならない。
だから、何度も読み返す。整理しきれていない想いも、何かから学んだことや気づいたことも、誰かにあてたメッセージも、ある物事について深く考えたことも。
どこかに書いてあった借り物の言葉ではない。自分から生まれ出た言葉だ。それを何度も何度も読む。そして自分の中に刻み込む。
そう考えると、自分のために書く文章は「書き終わった」時点ではまだ完結していない。むしろ書き終わった所からが始まりだ。繰り返し読んで、目に触れて。もちろん暗記をするという意味ではなく、自分の一部になって初めて書くことが終了する。
読み返すことをしない人ももちろんいるだろう。スッキリさせるために書く場合は、それもありだ。書きたいだけ書いて、そっと蓋をする。大切にしまっておきたいと思う文章もきっとある。
ただいつかは、蓋をあけてもいいのかもしれない。その言葉は、その人自身にしか出せないもの。せっかく生まれ出たその言葉を、なかったことにしない。この世に確かに存在していると、思い出してあげたい。そしてその言葉は、必ず自分を励まし、力になる。
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