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自分なりの解釈をしつづける

5月18日は「ことばの日」。

先日、それに先立つイベントに参加しました。
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コピーライターの阿部広太郎さんが新しい本を出版されるそうで、その本にまつわる講義やミニワークなどがありました。ちょうど一年前、阿部さんの『超言葉術』を読んだことで、言葉の世界へ一気に引きこまれたなぁ…としみじみ思い出していました。

そのときに書いたnote。
私にとって「原点」であり、ふと立ち返りたくなります。

講義の中では「解釈」のお話がありました。同じ事象、物事でも、どのように解釈するのかは自分で選べる。決めつけず、思い込まず、自分自身で解釈していこう、その解釈には自分の意志をこめていこう、というお話でした。

ミニワークでは「仕事を自分なりに解釈する」をやってみました。実はこれ、一年前のイベント(か、別の講座だったか)でもやりまして。『超言葉術』の中の「マイ定義を持とう」でも言われていたことではありました。たとえば阿部さんだったら、コピーライターの仕事は「世の中に一体感をつくる」という解釈で。

これが思った以上に難しくて。

一年前から考えているのですが、「これだ!」という解釈、マイ定義に行きついていなくて。私の仕事がちょっと特殊ということもあるのですが。

・子どもと関わる
・場や機会をつくるほうが主
・「体験」を大事にしている
・いろいらな大人との出会いにも重き

「子どもの新しい経験を支える」とか「子どもの人生の登場人物を増やす」とか「人との関係を編みながら場や機会をつくる」とか。これまで考えたことも、新しく考えたことも、合わせて出してみました。でも腹落ちするところまではいかなくて。うむむと唸っていたところ、ふとあることに気がついたんです。

腹落ちまではいかずとも、外せないニュアンスがありそうだと。こういうニュアンスだけは入れ込みたいという気持ちがあるような気がしました。

それは「後押し」「下支え」「バックアップ」というニュアンスです。

つまり子どもに関わる仕事をするにあたり、自分がぐいぐい先頭に立って率いたり、教育という字義通り「教え」「育てる」ということを主には置きたくないという想いの裏返しでした。

子ども本人に育っていく力があり、大人の役割はあくまでそれを下や、後ろから支えてあげること。もちろん「教える」が必要な場面があるのも承知ですが、「子ども本人に育っていく力がある」ということを何より大事にしたいなと。

それを踏まえ私の仕事って何だろうを再度考えたときに出てきたのが「子どもの未来へとつながるきっかけをつくる」でした。正確に言えば「子どもの未来へとつながる(かもしれない)きっかけをつくる」がいいなと。ただ、こうすると長い。

自然体験、料理、工作など、いろんな体験をするきっかけ。学校以外の友達と関わるきっかけ。親や先生以外の大人と関わるきっかけ。

そのきっかけが子どもの中でどのような経験として残るのか、または残らないのかはその子にしかわからない。未来につながっていくかもわからない。

だからこそ「かもしれない」なのですが、もしかしたら「あのときの経験が今につながってるなぁ」と思う瞬間が来るかもしれない。または思わなくても、無意識の部分でその子を形作る一部になっているかもしれない。

「かもしれない」が多いなぁ。

でも子どもに関わることにおいては「かも」くらいの気持ちがちょうどいいのかなと思っています。予測しすぎない。大人が思う通りに育つことを望みすぎない。「その子の人生はその子がつくる」を前提に、より豊かな人生につながるようなきっかけを、種を、たくさん蒔けるといいのかなと思いました。

まだ漠然としている部分もありますが、ぶらしたくない部分を整理できただけでもよかったなと思います。これからも、考え続けます。


誰かの解釈に縛られず、自分の解釈やマイ定義を持って生きていく。それを忘れずにいたいです。




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