自分だけの「特別な言葉」
食事のとき、お風呂から上がったとき、ふうと息つくタイミングでyoutubeを見る。ながらで見るには時間の長さ的にも内容のゆるさ的にもちょうどいい。
いっぱい食べる系の動画が特に好き。あくまで「作っている」ではなく「食べてる」もの。なぜ好きかと問われるとうまく答えられないのだが、「ほえ~いっぱい食べるなぁ」とぽけっと見るのが落ち着くのだ。空腹を刺激されるため真夜中に見ることはおすすめしない。
画面いっぱいに並ぶごはんをおいしそうに頬張っている。この細い体でよく食べられるなぁ~と感心する。見てると不思議と自分も食べられそうな気がしてくるのだが、実際目の前に来たらとんでもない量なんだろう。
黙々と食べ続ける人もいれば、途中で味の感想を伝える人もいる。
「おいしい」
「うま~」
「これは絶対食べたほうがいいね」
これらの言葉はたいてい聞き流しているのだが、時々、なんというか「陳腐だな」と感じることがある。いや、何様だって感じだけれども。
本当においしいんだろうし、おいしそうに食べてはいる。でもありふれた言葉で伝えられた感想は残念ながら心には届かず、「みんな同じ感想でつまらんなぁ」と心の中でちょっと毒づいた。(感想を伝える目的ではないだろうから仕方ないと思いますが)
そう、つい「その人だけの言葉」を求めるし惹かれてしまう。「今」の「その人」にしか発せない言葉。それはきっと誰しもにあるはずで。その言葉を聞きたいし、自分自身も探したいと思う。
先日、小野ぽのこさんのプロフィール記事を拝読した。過去に一度拝読していたのだが、Twitterで別の方が紹介していて、その帯に惹かれもう一度クリックした。
ぽのこさんは子どものころ、トンボが人差し指に止まった経験を作文に書いた経験から書く喜びを感じるようになったそうだ。
文章を書くのに、珍しい体験はあってもなくてもいい。
ただ自分の目や耳、手……全身で感じたことを丁寧に掬いとろうとすれば、それは「私だけの特別な言葉」になり、誰かの心に響くこともある。
過去にも読んだはずなのにここは特にぐっと惹かれた。気づけば手元のノートにペンを走らせメモしてた。
「私だけの特別な言葉」
それがどういう言葉なのか、ぽのこさんの文章を読むと実感する。
たとえばこちらのnote。
準備から食べるところまで、鍋のおいしさや囲む楽しさが詳細に描かれている。読み進めるとウキウキしてきて鍋が食べたくなる。タイムワープできるならばこの場に居合わせたいとさえ思う。
クツクツと穏やかに揺れていたかと思えば、突然ボコボコと踊り狂う出汁。
向かい合う夫の輪郭がぼやけるほど、もくもくと上がる白い湯気。
鍋に放った途端、魔法みたいに鮮やかな緑に変わる葉野菜。
一言で言うならば「鍋をしておいしかった」になるのだろう。でもその言葉ならば誰でも言えるしつまらない。特別な言葉じゃない。
このnoteを読むとぽのこさんだけの特別な言葉が、あらゆるところに散りばめられているのがわかる。だから惹かれるんだ。届くんだ。響くんだ。そう感じるのはきっと私だけではないはずで。
自分の目や耳、手……全身で感じたことを丁寧に掬いとろうとすれば、
ここ、ここなんだよなぁ。ぽのこさんが全身で感じて丁寧に掬いとってることが特別な言葉につながっていることがわかる。
確かに、何かを体験することの「感じ方」は本当に人それぞれ。同じ体験をしても「おもしろかった」「つまらなかった」と真逆の感想が出てくることがあるように、感じ方はその人だけのもの。だからその部分を丁寧に掬いとれば特別な言葉が出てくる、はず。
…と、頭では理解しても難しい。
感じ方は人それぞれといいつつ「いい感じ方」と「いまいちな感じ方」はあるような気がして、同じ「感じる」だったら、ぽのこさんのような「いい感じ方」ができるようになりたいと思ってしまうのだ。うん、難しいことはわかっていても。
この「感じ方の磨き方」については答えが出てないが、書くことで感じ方が磨かれているような気もするし、これからも考えてみようと思う。
「感じる」が「特別な言葉」につながる出発点。
どこにでもある言葉、誰でも言える言葉でなく、自分の言葉で表現したい。
ぽのこさん、ありがとうございました。
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