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表現力を磨く

毎日文章を書いていると、自分がよく使う言葉や書き方の癖などに少しずつ気がつく。

私がよく使う言葉は「嬉しい」「大切」。それと、なるべく使わないように意識しつつ結局使ってしまう「素敵」。癖は「~かも」「~な気がする」「~のように思う」とか。断定することへの自信のなさがあらわになっている。

「~かも」の部分はややこしいのでいったん置いておくとして。「嬉しい」などのよく使う言葉たちは、それに「逃げている」感もあるなと思っていた。

もちろんそう思った、そう感じたことは嘘じゃない。嘘じゃないけど「とりあえず」その部分にははまるし、通して読んでも不自然じゃない。まあこれでいいかと、真剣に考えず使ってしまうこともあった。

昨日、大前みどりさんの記事を拝読し、しばしば気になっていたことを言い当てられた感じがして、ぐさりと来た。

使うなら、どれだけでもくだいて説明できるくらい、心して使うべし。書いたものを読み返してビッグワードに気づいたら、言い換える努力をするべし、と自分に戒めている。

だが、わかっていながら使ってしまうこともまだまだ多い。なぜかというと、一言で言いたいことを言える気がして、ラクだから。ようするに、さぼり、手抜きなのだ。

大前さんは例として「愛」という言葉を使う方と接したときの違和感について書かれていた。それがビッグワード。「嬉しい」や「大切」も、抽象的なニュアンスが大きいという意味では、ビッグワードと言ってもよいのかなと思った。

ラク、さぼり、手抜き。
はい、その通りです…

私は、自分の文章は下手ではないと思うけど、「表現力」という部分ではまるで自信がなく。心をぐっとつかまれる文章だなぁと思う人たちのようなエッセイや小説を読んでは憧れうらやみ、自分の文章を読んではへこみ。

でも当然なのだ。使いやすい言葉に逃げていたのだから。使いすぎてると気づきながら、他の言葉に置きかえる努力をしていなかったのだから。それでは表現力は磨かれない。

使うなら、どれだけでもくだいて説明できるくらい、心して使うべし。

たとえ抽象的な言葉を使ったとしても、その言葉で何を伝えたいのか整理できた上で、それでも使うことが適切だと思うなら使えばいいんだよね。でも、伝えたいことの中身の解像度を上げないまま、「何となくはまりそう」という理由で使っていては、伝わる文章になっていかない。

「伝わる」という状態につなげていくために。

何を伝えたくて、その言葉を使うのか。
それは、もう少し具体的な言葉に置きかえることはできないのか。

書き終わった後に、全体的に見直してみる。

表現力は、自然には上がっていかないのだ。


大前さん、引用させていただきありがとうございました。




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