子どもとの関わりの出発点。
noteを書こうかな、どうしようかな、と考えながらなかなか始められずにダラダラした時間が過ぎてしまった。
言葉にすることは好きだけど、言葉にすることはエネルギーが必要で、エネルギーを使うってことがわかってるから、何となく省エネモードでいたいときは、書きたいことがあっても書き始められないことがある。
ただこうして書いているとだんだん、「あ、やっぱり書きたいな」という気持ちになってくるから不思議。要はスタートさえきってしまえばあとは走るだけ。走っているうちにいろんな景色が見えてきて、スピードも少しずつ上がってくる。
中身のない冒頭になってしまいました。
今日は、子どもとの関わりの中で大事なこと、大事にしたいことを書きたいなと思います。
今まで、幼稚園の先生の仕事や、夢職人の仕事、シッターの仕事などと通じて、いろいろな子どもと関わってきました。
関わる子どもの年齢は2才だったり、はたまた小学生だったり、バラバラ。1回きりの関わりの子もいれば、長く付き合っている子もいるけど、でもどの子に対しても、関わる時に大事なことは共通していて、めちゃくちゃシンプル。
それは「子どものことをよく見る」ということ。
「見る」って言ってもただぼーっと見ていればいいというわけではなくて。難しいのですが「能動的に見る」「積極的に見る」という表現が近いのかな。自分から能動的に子どもに関わっていく中での一つの関わりが「見る」で、それがすべての基本で、出発点だなあと。
たとえば。4歳のお兄ちゃんが、3歳の妹が手を洗う際に、手が届かないからと台を近づけてあげたり、石けんを差しだしてあげたりする。子どもの姿を能動的に見ていると、そういう姿に気づくことができ、「あ、手伝ってあげているんだね」「ありがとうね」と声をかけることができる。
こうやって声をかけることができると、何がいいのか。
それは、正直なところわからない。子どもに聞いてみないと。
子どもによっては「見てもらえている嬉しさ」だったり、この場面では「お兄ちゃんとしての誇り」を感じたり、もしくは「僕にとっては当たり前のことだから」と、私の言葉なんてスルーしているかもしれない。
でも確実に、マイナスではない。子どもと関係性を作っていく上で、プラスに働く可能性の方が高い。だってやっぱり「見てもらえている」ということが嫌な人ってあまりいないと思うから。大人だって、見てもらえて、ほめてもらえたり、何かしら声をかけてもらえると嬉しい。それと同じ。
ただ、ここで伝えたいのは、よく耳にする「子どものよいところをほめましょう」というのとは、同じようで、少し違う。
「子どものよいところをほめましょう」は、「ほめる」が先で、そのために「見つけましょう」と言っている。ほめるありきで関わっているから、うまく見つけられないと「ほめるところなんてない!」と思ってしまう。
そうではなくて「見る」を先にする。よく見て、子どもが今何を考えているのか、何をしようとしているのか、なぜそうしているのか、能動的に見ていると、本当にいろいろ見えてくる。弟や妹に優しいところ、頑張ろうとしているところ、自分の興味に没頭しているところ…など。
そして「あ、いいな」と思うと、自然と言葉が出てくる。それは「えらいね」とか「すごいね」というほめる言葉である必要もなくて、ただ「そうしているんだね」「そう考えているんだね」と伝えるだけで、全然いい。
よく見る、そのうえで声をかける、という関わりは、これまでの経験の中の実感値ではあるけど、子どもとのいい関係を築く一歩になっているのかなと感じます。
ただ、「いい関係」につながっていくかもしれないけど、「いい関係を築くため」に、「子どもの姿をよく見ましょう」ということとも、また違う。何かを目的にして子どもと関わろうとすると、それは手段的になってしまって、子どもにも伝わる。
あくまでその子のことを知りたいな、どんな子なんだろう、仲良くなりたいな…という「好奇心」や、一人の人間として「尊敬」する気持ちをもって。その上で出発点にしたい関わりが、私は「見る」という関わりだと思います。
今出会っている子どもたちも、これから出会う子どもたちも、その子の「いま」をたくさん見て、関わっていきたいと思います。
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