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母の遺言の手紙

今年の夏、久しぶりに帰省して、実家に置きっぱなしの持ち物を整理してきた。
実家の父はまだまだ元気で今年も富士山登頂を果たしたほどだが、高齢になってきたので、物を減らしたいと言われたのだ。

結婚する時、大概の不用品は処分したつもりだったが、アルバムや手紙などが残っていた。手紙の中には、母が送ってくれたものがたくさんあった。
私が小学生の頃、白血病で何度も入退院を繰り返していた母は、入院が決まるたびに、はがきをたくさん購入して病院に持ち込んでいた。そして、毎日のように四人の娘それぞれに宛てて短い文章を書き、書いた4枚のはがきを毎日送ってくれた。

母から手紙が送られてくることもたまにあった。その時は、娘たちそれぞれへの手紙を、縦書きの殺風景な便箋に書き、ひとつの白い和封筒にまとめて送っていた。

ところが、残された母の手紙の中に、私だけに宛てて送られた手紙があった。しかも見慣れた縦長封筒ではなく、洋式のレターセットに書かれたものだった。珍しいなぁ、とまるで初めて読むような気持ちで、既に開封された手紙を読んだ。

『お母さんにもしものことがあれば、この手紙がお母さんを思い出す唯一のものになるでしょう。』

そんな言葉で始まっていたそれは、母の遺言状だった。
日付も書いてある。昭和59年12月。
10歳の私に宛てて書かれた、母の覚悟の手紙だった。

同時期の記憶で、ある日小学校から帰ると、暗い部屋の隅で泣いている母を見てしまったことがあった。この数年前から白血病を発症していた母だが、おそらくこの頃に告知を受けたのだと思う。

これを開けた10歳の私は、手紙を読んでどんなふうに感じたのだろう。
それまで身近な人の死に接したことなどなく、お葬式は黒い服装で神妙な顔して正座を我慢する日、程度にしか理解していない。これから来るであろう母との別れをリアルに想像することはできなかったに違いない。
私は、手紙の内容や意味を理解しようとすれば別れが来ることを認めることになりそうで、記憶に蓋をしてしまったのだろうか。あろうことか、この手紙を貰ったことも内容も、今になって再び読むまで覚えていなかった。

母は、どんな気持ちで10歳の娘に宛てた遺言を書いたのだろう。入院すればもう家には帰れないかもしれないと思い、入院の準備として、娘に宛てて遺言を書くためのレターセットを選びに出かけたのだ。その母の心情など想像を絶する。

それにしても驚いたのは、母にとっても私にとっても、10歳なんてまだほんの子どもじゃないか、ということだ。
母が私に残したかった言葉の重みは、とても10歳の子に受け止められるものではない。
それを分かっていても、書かずにいられなかったのか。それとも私なら受け止められると思ったのか。今更母を責める気持ちなど毛頭ないが、10歳の娘に遺言を残した母に戸惑いを感じずにはいられなかった。

母亡き後の、生活も人間関係も、自分の性格すら180度変わってしまうような苦しい日々を思い返すと、母はそうなることを予期して多少なりとも心積りをしてもらいたかったのかもしれない。けれど、結果として私はその手紙を物理的にも心情的にも奥深くしまったまま、頼むことをしなかった。

もし私が母の立場で、10歳の子と病気で死に別れるかもしれないと思ったら、いったい何を残すだろう。
母のように病気について報せ、我が子にどんな成長を期待するかを書き残すだろうか。それも一つだ。
それとも、家事の技術や、人への頼り方など、これから来る辛い日々を乗り越える術を教えるだろうか。それもありだ。
けれど、今の私ならそれはしないだろう。
ただ、私はとても幸せな人生を送れたということ、そして我が子を心から愛しているということを、目をまっすぐ見ながら言い聞かせたい。なぜなら、それこそが、母の死後、私が母に確かめたかったことだからだ。

それでもやはり、手紙に書かれた34歳の母の言葉は瑞々しく、苦悩も悲嘆もそして娘への愛も、その息遣いが聞こえるかのように私に響いてくるのだった。

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