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見えない世界を見るために

いつの頃からか、私は「目が見える・見えない」ということに興味を持ち始めた。きっかけとしてまず思いつくのは、スティービー・ワンダーの存在だ。言うまでもなく生きるレジェンドであり、盲目のアーティスト、ミュージシャン、ソングライターなどなど、さまざまなタイトルがある天才の彼。1度だけコンサートに行ったこともある。そう、あれは阪神淡路大震災の直後のライブだった。アリーナではなかったが見やすいスタンド席だったと記憶する。ピアノの前で演奏し、歌う画だけが今でも思い浮かぶ。とにかくオーラのある人だった。

そんな偉人の噂 ”スティービー・ワンダー目が見える説” をご存じだろうか。都市伝説にもならないようなチンプなものであるが、
根拠その1. 3人の嫁がみな美人であること、
根拠その2. ホテルのロビーで新聞を読んでいるのを目撃された、というものである・・・嫁はともかく、ホテルで新聞広げている姿を想像すると、ちと面白いので私は気に入った。

そこでふと気になったのだ。スティービー・ワンダーは作詞もしているが、「色」の表現を使っていなかっただろうか?と。
『Stay Gold』というタイトルの曲もあるし、” the Sky is blue ~” みたいな歌詞ってなかったか?私の記憶は基本 "うろ覚え" なので、実際そんなものはないかもしれない。

が、ともかくそれ以来、そもそも目の見えない人は、どのように色を認識しているのかを不思議に思うようになったのだ。

さらに、音楽つながりであるが、エアロスミスの『Blind Man』という曲の歌詞にも引っかかった。
♪ I met a blind man who told me how to see. ~
「目の見えない男に出会い、モノの見方を教わった」とでも訳そうか。

おお、これはなんとも哲学的だ。ハードロックの歌詞、特にバラードには現代風に言うとエモいものがたくさんある。あの人たちは見た目とは裏腹に、結構おセンチなのだ。

それはさておき、見えない人から目の使い方を教わったということであるから耳が痛い話である。ちゃんと見ているのかと説教されているのだ。そういえば、本当に大事なこと(あるいは真実など?)は目には見えない、などとも聞いたりする。
俄然、このままでは気が済まなくなった。私は目の使い方を再検討する必要がある。
そして目が見えない人が見ている(かもしれない)世界、あるいは目を使わずして見えるモノを、自分の目で見てみたいとも思った。

まずこれにあたり、見えないモノが見えるとしたら「第3の目」か「第6感」的な感覚を使わなければならないのではないか、という発想になった。しかし残念なことにこれらは現代人から消えつつある能力であり、維持あるいは強化するためには日ごろの鍛錬が不可欠になる。筋トレのように、日々のコツコツとした努力を継続し、それを習慣化するまでもっていきたい。
完全にその能力がなくなる前に、早く訓練を始めなければならない。

そこで私は普段はいつも通りに目を使うけれど、少なくとも何か自分にとって大事そうなものや興味をもったものに対しては、極力目を使わないようにすることにした。言い方を変えれば、非常に怪しげな表現だが、「第3の目」でモノを見るようにしているのだ。実際、傍から見ると怪しげな行動かもしれないが・・・

その例を一つあげると、絵画鑑賞をするときだ。
言わずもがなこれは「目」なくしてはできない行為である。しかし作品を見るとき、私はしばらくそれを目に焼き付けたあと、敢えて目を閉じてみる。そしてその絵を思い浮かべ、そのとき脳裏に蘇ったものだけが、私にとっての大事なもの(私の第3の目が見たモノ)ということにする。
それ例外のビジュアル的な要素は、私にとってはあってもなくてもよいような存在であり、なんならモノを見るときに本質を覆い隠してしまう "トラップ" と言ってもいいだろう。
これはその場で以外にも、鑑賞の数日後に思い返すことで、さらにフィルターにかけることができる。本当に自分にとって大事なことだったら忘れていないはずだ。加齢にともなう「物忘れ」とは違う(と言わせてほしい)。

あるいは、たとえ絵の中の情報が、その絵を鑑賞するために一つとして欠かせない要素だったとしても、私の脳の処理能力では間に合わないということになり、すなわち自分にとってはあってもなくても関係のないものということで、仕方なしとする。己の限界を知り受け入れるというのは幸福への第一歩だから、これでもいいのだ。自分の能力を過信するべからず。

念のため言っておくが、実際に絵を見るときにはこれ以外の鑑賞の仕方をすることはある。たとえば花瓶にいけた花の絵や、どこかの国の王様の肖像画を見るのに目は閉じない。それどころか肖像画なら、ジーっと睨みつけんばかりに目を凝らして見るだろう。あくまで興味はあるけど見ただけでは意味がわからない作品に出会った際に、実験的な対処法として「第3の目」を使うことがあり、それがその訓練になるという話だ。

ちなみにこれができてさらに精度が上がると、情報過多な現代を生きるためにも有利であると思う。いくらたくさんの情報が手に入っても、それがすべて自分にとって必要であるということはないのだ。むしろただの「迷いのたね」にしかならず、心身共に悪影響を与えるだけになる。(私はそれを毎週の競馬予想で身をもって学んでいる)
たくさんあるという状況はありがたいので贅沢な話ではあるが、限りある人生をなるべく有意義に生きるためには、情報は自分で精査し、減らしていく技を身につけなければならない。
情報過多に対応する方法は他にもあるだろうが、私は生きていく上では最終的に直感が最強だと考えているタイプであるから、あくまでもモノを見るときの "便利ツール" になることを期待し、この「第3の目」を鍛えて活用する方法を採用している。

目は便利な器官だが、それに頼り過ぎて他の器官の能力を衰えさせてしまっている可能性もある。「百聞は一見に如かず」というように、目を使うことは情報収集においてタイパはいいのだが、一瞬で事をなしてしまい、結果それ以上脳を使わなくなる。そしてそれを続けていると脳の筋力の低下を招くことになる。老化ではない。たとえ若くても、使わない筋力(能力)はいずれ退化してしまうのだ。だとしたら、それはもったいないではないか。できれば人間の持っている能力は、すべて使ってみたいと私は思う。

とはいえ便利さと楽さも時々は享受しつつ、しかし何事も面倒くさがることなく、使える能力はなるべく使って、これからの時代をいろんな目で見て楽しみたい。



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