風水 死者の葬いと石長比売

風水には陽宅と陰宅という考え方がある。
宅とは、住居のことをいう。

陽宅とは街や家といった生きている者の生活空間を表す。
一方で陰宅とは、死者の居住空間であるお墓を意味する。
風水では、陰宅(墓)と陽宅で運気が上がるように工夫すれば、生者は子孫繁栄を得、死者は永遠の幸せを得るとされる。
お墓(陰宅)が良ければ、子々孫々に良い影響を及ぼすことができると考えるのが、お墓の風水(陰宅風水)の考え方である。
これは本来、土葬を前提とした風水技術となる。

埋葬された遺体の骨に存在する物質が故人の子孫に影響を与えると、風水では考えられている。
骨が土地の良い気を受け取ることができれば、子孫も良いエネルギーを得ることができ、運が開けるというわけである。

陰宅の場所は、亡くなった方が休む場所なので、陰つまり動かない気である事が望ましい。

なので、風がほとんど通らないような周りの状態(樹木や山、建物など)が、とても重要になる。

周りを山に囲まれたような四神相応の地形が良いそうだ。

青龍(墓地の向かって右側)には、山や小高い丘があり、玄武(墓地の背後)にも、しっかりとした高さのある山があり、白虎(向かって左)にも、山などがあるべきだが、徐々に下がってくる地形が良い。
そして墓地の前方には、広く開けた土地(明堂)がとれている必要がある。

明堂がとれない場合、経済的に困窮すると言われている。
このように死者を葬う場所は、子孫繁栄にまで影響するため、古代より皇帝も明堂探索を行なってきた。
徳川家康もその一人であると言われる

日光東照宮は、天海和尚が易と風水の技術から割り出した江戸幕府存続を約束した地である。
天海の遺言にはこう記述してあるそうだ。
「水戸藩より世継ぎを(将軍)を迎える時、徳川幕府は終わる」
第十五代将軍である徳川慶喜は、水戸家から出た。
これが鬼門説であり、江戸から みて北東にあたる方角が水戸となる。
北東は現在でも表鬼門といい慎み嫌われる方位で、
易では鬼門の北東は「変化変動、相続運」を意味する。 よって江戸幕府は終焉を迎えた

さて、古事記からこの陰宅風水の考えが読み取れる。
天孫降臨後、邇邇芸命は木花之佐久夜毘売と出会う。
その姉石長比売。
父大山津見神は姉妹2人を嫁にと言うが
醜い石長比売は追い返される。
父は「石長比売を使えば永遠の命を得る事ができるのに、木花之佐久夜毘売だけを使えば繁栄はするが命は短い」といい、このため、天皇命等の命は短くなったと書かれている。
この話は、国造りにあたり風水の技術導入を行う話しだろう。
山には気が満ちている。
その気を目に見える地形や地勢から判断する場合と
目にみえない気を易や方角から判断する場合がある。
その気を活用する技術が風水。
生活空間としての都(陽宅)
死者の埋葬地の墓所(陰宅)

陰宅の土地を探すのは極めて難しい。
龍穴を見つけ出す必要があるから。
それが見にくい=醜い石長比売に引っ掛けられている。
石は岩。岩は龍穴の場所と密接につながっている。

また、天神たる天文・暦が国神の易と結び付く理気風水の誕生を象徴していると思う。
この背景に、火葬の導入があったと推測する。
陰宅風水は、土葬が前提である。
火葬にすれば、効力が失せる。

天皇の土葬から火葬への転換点は
持統天皇である。
『続日本紀』によると、最初に火葬された天皇は持統天皇で、702年に崩御し、(もがり)の儀礼の後、703年に火葬されたとある。
また、火葬が日本に導入されていくのは仏教と大化の改新による。
つまり、飛鳥時代に風水による陰宅概念が消されたといえる。
古事記の内容は、それほど古い話ではなかった。

だが、その陰宅風水の灯火は消えることなく江戸期に天海和尚が採用し、そして加賀藩もまたこれを用いたものと推測する。
加賀百万石の栄光、それは古代史から消された越の意義と密接に関わっているのだ。






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