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今年の中秋の名月は,満月であった.
東京はちょうど晴れていて,大きな月がよく見えた.

去年のその日など当然覚えていなかった.
天気や月の形も.きっと団子が並んで売られているのをぼんやり素通りしたのだろう.

毎晩空にあるものだからこそ,僕たちはその夜のことを結びつけて覚えていたりする.
覚えておきたい夜の月を写真に撮っても,美しさも鮮度もひどく落ちた,ぼやけた夜空の写真が残るだけだ.街の光はそれなりにきれいに写るから,尚更そう思う.
だからこそ,月の思い出がない人はいないのではないだろうか.

医師になり最も忙しかった頃.
休みが合わず会える日がなくて,当直中に妻が会いに来てくれた.病院の裏で座って,少しの間話をした.日付も季節も覚えていないが,月が出ていたのは覚えていた.今でも時々その場所に一人座るのが気に入っている.

妻と最後に行った旅行.
僕が幼い頃行った旅館を気に入ってくれた.深い藍色の海の,更に深い波の音を聴きながら,少し欠けた月を見上げた.
何を話したのだったか.お腹の大きい妻の体が冷えないか心配だったことを覚えている.

息子の火葬の前日.
妻と二人で夜の散歩をした.寂しいけれど大丈夫.がんばるぞ.がんばろうと
二人,精一杯の無理をして強がってみせた.
横を歩く,愛する人に.あるいは,ただ自分に.
街の音と,陰る月と,コンビニの灯りを覚えている.

また月を見上げた思い出ができることはあるだろうか.
ある日突然月がなくなるようなことだって起こりうると知っている.
それでも僕は静かに生きていくであろうことも.

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