葉書と郷愁
年末に僕がやらなくてはいけない仕事の一つは、年賀状を作ることである。
「仕事」といっても、パソコンが有る便利な時代だから、干支にあうイラストを選んで貼り付けたり、写真を貼り付けて、少しメッセージを入れるだけで年賀状は出来上がる。めんどくさければ、スマホでプリセットを選んでサクッと作ってしまうこともできる。さらに簡単にしたいなら、郵便局などで予めできているものを買って、あとは宛名を書くだけ……というのでも良いだろう。
新年に入ると、遠い親戚や知人からそれなりの量の年賀状がやってくる。
少し防寒をして、自宅のポストを覗くと、輪ゴムで束ねられた年賀状が入っている。
普段はメールやメッセージアプリで連絡を取り、新年の挨拶さえも、「あけおめことよろ」で済ませてしまう我々であるが、このときばかりは、誰から来ているだろう、と少しばかり緊張するのである。
そして、今はあまり関わることも少ない知人の現況を知って、なんとも言えない気持ちになる。
年賀状に限らず、葉書というものは、得も言われぬ魅力がある。
紙に刻まれた文字や絵は、少し前に相手が考えながら生み出したものである。そこから、遠くにいる相手の気持ちや空気感が伝わってくることさえもある。
夢野久作の「少女地獄」は、1936年の書簡体小説である。また、かつての科学者たちの論争は主に手紙で行われていた。
こうしたものを読んでいると、内容は別として、メールやメッセージアプリが一般的になる前の、手紙や葉書をやり取りしていた時代を思い返さずにはいられない。
「昔は良かった」と言うつもりはない。時間に縛られずに気軽に連絡がとれる今は今で大きなメリットがあるだろう。
これは、今から100年後の人間が、画面に張り付いた定型的な文字に何とも言えない感情を起こさせるのと同じようなものである。
それでも、知人から届いた近況報告の葉書や年賀状を見るたびに、ゆっくりとコミュニケーションを取っていた時代へのある種のあこがれを完全に捨てきることはできないのである。