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幸せについて思うこと・感じること。

 幸せになることはむずかしいと自然に、ごくごく自然に考えていました。そのいわば「思いこみ」のほうがリアルで、日常に転がっている、ささやかな幸福やありがたいことへ、意識を向けることを忘れてしまっていたようなのです。思いのほか、今、与えられた環境や居場所って、そんなに悪いってことなかったりするんじゃないのかな? って、ふと思ったりしています。

 まえのじぶんは「現状」=「変えるべき対象」といったイメージで、現状に甘んじることは、成長をとめてしまう、と無意識に思ってつねづね成長をめざして生きていました。それがごくごく最近までそんな様子だった見たいです。

 今あるもの、与えられたもののよいところをみないで、お給料が低い、もっとクリエイティブに働きたい、悩んでばかりいるのはイヤだ、と「よくないところ」探しの名手になってしまっていました。ですがですよ、目の前にある「今」ってそんなに「悪」なのかなと、おちついて覗いでみますと、まぁわりと平和だし悪い人もいないし、波風ないけど笑顔だってあるし、そんなに変革変革と、声高だかに叫ばなくても、よくない? って思ったりも。

 変わろうとすること、がんばること、成長する、をすごくすごく宝物のようにしてきましたが「今にいて満ちる」というと、大げさかもしれませんが、今だって結構いいのかもな、と感じます。苦しいときは、自分のなかで何かが気になったり、悪いことを考えている時が多いものです。現実のよくないところが目につくと、幸せは遠ざかってしまう。そんなことを思います。

 幸せ探しは、遠くへ行かなくても、今あるもの今満ちているところをかぞえてみると、案外置かれているところは幸せスポットに思えたりする。と、思うのです。ただそう無理に思うこともないのですけれど、ぼく自身は最近そのように感じています。

 豊かさをどんな風に定義するかで、幸せは大きく違うものになると思います。お金があることが豊かなのか、健康であることが豊かなのか、生かされていることが豊かなのか、あるものに満足する、そして、コツコツと与えられたところ、今できることから成長していく。そんなふうに無理のないカタチで、生きていこうとぼく個人は思っています。

 幸せはむずかしい、ものなのではなく、いろいろな心の足かせ的な思い込みが幸せを遠ざける要因なのかもしれません。お金がないと、健康じゃないと、彼女(彼氏)がいないと、いろいろな基準があるけれど、手元にあるものから、いっぽずつ伸びていったら、気づいたころにはずいぶんと大きな貫禄さえ持ち合わせた大樹になっているかも、また、しなやかな美しさを備えたお花になっているかもしれません。

 幸せについて考えるこのnoteの時間も、ぼくにとっては幸せな時間です。お付き合いくださいますあなたへ、ありがとうございます、またお会いしましょう。

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