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僕と中島晴矢の「違い」

無茶な試みか。やってみよう。

そんな書き出しで、メモばかり溜まっていく「中島晴矢論」はいつまで経っても完成しなさそうだった。断片的でもいい、何かこの文章を完成させることで俺は前に進むことができる。そんな気がしたから、えいやっと文章を書き進めている。だからもしかしたら、同じ悩みを抱えている人にしか通じないと思う。それが僕なりの「中島晴矢論」だし、それ以上のことは嘘になってしまうから何も説明はしない。ただこの草原を駆けていく。飽きたら立ち止まって花でも眺めながら、文章を読むのをやめて欲しい。「途中でやめる」それこそが「中島晴矢論」にもっとも相応しい態度だと思ったから。

じゃあ、行こうか。

なぜ今、「中島晴矢」か

とはいえ反応には2種類あるだろう。「中島晴矢と石田祐規は別人である」という観察から帰納する人と、「いや、中島晴矢と石田祐規は同一人物である」という演繹としての回答。君はどっちだろうか。

たしかに中島晴矢は僕より10倍知性があり、100倍の教養がある。それは認めよう。だが僕は「中島晴矢に負けた」と思ったことは一度もない。自らに内在する狂気をコントロールまたはアン・コントロールし表出すれば、いつか中島晴矢を超克できるのではないかと本気で思っている。

つまり、僕は前者の人間だ。「中島晴矢と僕は、別のキャラクターである」という仮説を信じている。正確に言えば、信じていたかった。そんなとき5月から6月にかけて僕は深い領域まで落ち込んだ。過去や経験、それらすべてと向き合ったとき、誰もいなくなって、真っ暗な深淵には中島晴矢がいた。豆鉄砲を食らったように僕も驚いた。中島晴矢はもっと驚いていると思う。

思い返せば、僕が写真をやっているのも中島晴矢が渋家に持ち込んだ『NUDITY (菅野美穂/宮澤正明)』という写真集がきっかけだった。そこには被写体と撮影者の美しい共犯関係があり、巷の本屋に並んでいる「退屈な写真集」とは一線を画していた。僕は夢中になって読んだ。写真ってこんなに豊かな表現ができるのか。パッケージはただの「女優のヌード写真集」だが、中身は宮澤正明による魂が入っていた。よくぞこれを事務所は許可したものだ。写っているのは「裸」ではなく「信頼関係」だった。世界で一番エロいものだ。僕もいつかこんな写真を撮りたいと心から願った。

ヒップホップも増田捺冶から輸入されてきたものだと思っていたら、それも元を正せば中島晴矢が源流にあった。なぜだ。なぜ俺がハマるものは先に中島晴矢が手をつけているのだ。

その確信を強めたのは2020年5月から中島晴矢が連載している「オイル・オン・タウンスケープ」という連載である。これまで中島晴矢は手を変え品を変え、ニュータウンについて何度も言及してきた。思えば出会った日から、今日に到るまでずっとだ。中島晴矢から何度もメッセージを受け取っていたはずなのに、その切実さに僕は向き合えていなかった。

これを読んだ時、電撃が走った。これまで中島晴矢の文章に共感したり、理解することは(失礼だけれども)無かった。プロレス論や都市論などの、僕の知性では理解が追いつかない、難しいことをこねくり回している印象があったからだ。この連載にしても1号から読んだわけではなく、たまたまTwitterに流れてきたから6号を読んだだけだ。「オイル・オン・タウンスケープ」というタイトルもきっと深い意味・引用や彼なりのダジャレが入っているのだろうが、僕には読解できなかった。とにかく、この連載のこの文章が良かったのだ。

これまで分からなかった中島晴矢の細かいディティールが魂から理解できた。行間から溢れる叫びや嘘が僕には明確に分かった。こんな体験は初めてだった。それこそが「石田祐規と中島晴矢は同じ絶望を共有している」という証左であり、僕にとっては認めたくない事実だったからだ。

例の戦争から半世紀以上経過
今じゃ日本も混沌の中で 右傾化
勝てば官軍ってな単純な発想 Fack you
ツルハシで掘り当てる自分だけの鉱脈

中島晴矢の話をしよう

なんでみんな中島晴矢の話をもっとしないのだろう。これからを生きる我々の話ではないか。地方から都市へ吸収されていった両親たち。祖父や祖母は、農村が廃れていく景色を眺めたまさに生き証人。いま我々が考えるべき問題だ。「帰る場所が無い」とか「アイデンティティ・クライシス」とか今風の物語論で語ってしまおうと思えばそれまでだけど、僕や中島晴矢はもっと肌感覚の恐怖を感じている。

お互い沖縄に生まれなかったのが運の尽きだな。

でも、待ってくれよ。別に俺たち「生まれをレペゼン」するようなタイプの人間じゃないだろ。むしろ、有ったら有ったで邪険に扱いそうなものである。たとえば北海道の富良野で生まれ育っていたら「富良野なんてなんの文化資本もないつまらない場所だよ。2秒で発狂する」とか僕と中島晴矢は言いそうである。もし実家が伝統ある「豆腐屋」だったとしたら? きっと親のことを大っ嫌いになっているはずである。長男であることを丿乀と恨み節のごとく謳っていたはずだ。

そのまま映画館にでも行って『シュガーラッシュ』でも見ようか。あるいは『スタンド・バイ・ミー』? それとも『トイストーリー』かな。

ははは。冗談だ。それなのになぜ俺たちは物語を求めてしまうのか。境界線やイニシエーションを超えて、決まり切った日常に帰ってこられる。そんな物語が羨ましいのかもしれない。大人たちが言う「無いものねだりだよ」という分かったようなセリフとは決別しよう。結局、いろいろあったけど、実家の豆腐屋を継ぐことにしたよ…と酒を飲みながら仲間とたむろするその日まで。(親が公務員なので家業というものに憧れがある)

なんだ、結局、親の血が凄いのかよ」というジャンプ漫画にありがちなガッカリのその先に──僕と晴矢が立っている。

中島晴矢は病んでいる

中島晴矢はたまに麻布高校の話をする。狂っている。人によっては病院に連れていかれるかもしれない。しかし、中島晴矢は健全である。彼もまた麻布高校に感染した被害者なのである。

普通、高校の話を卒業後にすることがあるだろうか? 卒業して3ヶ月とかならありえるかもしれないが、半年後には話さなくなるし、1年後には記憶のすべてから消え去ってしまう。「いつまで子供時代の話をしているんだ、こいつは」というのが中島晴矢への初期の印象だ。高校時代の友達の名前を1人も思い出せない僕より──。

しかし、その印象は増田捺冶との出会いにて変わった。察するに麻布高校というのはとても面白い場所らしかった。あまりにも面白い場所すぎて「高校」という文字を後ろに付けるのがもったいない気すらした。話を聞くたびに僕の高校時代とは異なり、次第に憧れへと変わっていった。(僕と同じ体験をしたことある人ぜったいるやろ!)と、微かな祈りと共に「麻布病」でネット検索しようと思った。「あるかな?」ぐらいのニュアンスで検索したら、0.1秒後には「やっぱり」に変わった。書籍『麻布という不治の病: めんどくさい超進学校』が2020年10月1日に発売されていた。

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齋藤恵汰の「学校に泊り込む」という奇行、中島晴矢の「卒業して10年以上たっても高校の話をする」という奇病、増田捺冶が台湾に来てまで「高校の友達と通話する」という奇矯。これらが一本に繋がった。ヤツらだけではなく、環境も凄かったのだ。どんな環境だったんだろう、と僕には想像することしかできないが、僕はかなり正確に想像できる。それはタイムレスな空間だった。時間が存在せず、いつまでも議論できて、問題を共有できる仲間がそこにずっといるということだ。没入の果てに、目を上げれば仲間がいる。あるいは、仲間だった者がいる。心からぶん殴って、全力で殴り返してくるゲームに多くの人が乗ってくれる。そんな環境から人間は日常に着地することができるのだろうか。人間にとって、いや、僕と中島晴矢にとってもそれは覚醒剤だった。手を出してはいけないものだった。禁断の果実とは、目に見えないものなのだ。

私たちはこれからも、ずっとこんな調子で、
「LIFE IS ART」し続けるだろう。

渋家トリエンナーレ2010宣言文"中島晴矢" より)

僕と中島晴矢の共通課題

確かに僕と中島晴矢は似ている。だが、「どこが似ている」と問われるとそれぞれが異なることを言う。彼曰く「許す」というキーワードが出てくるし、地元を許す、生い立ちを受け入れる、ニュータウンと和解する。そんなところだろうか。……しかし僕は地元を許している。最初から許している。友達は一人もいない(=仕事が無いので、みんな東京なり大阪なりに移住するので物理的にいないという意味)という寂しさを除けば、居心地の良さは認めている。

僕と中島晴矢の同一性を探っていくほどに「差異」もまた、明らかになってきた実感がある。言語化できるかは別として、ほとんど同じ絶望を共有していながら、異なる部分は確実にある。そのわずかな「ズレ」を炙り出すことができれば、僕は一歩前進できるような気がしている。

上記に書いたことは本人にきちんと確認したわけでもないし、これから中島晴矢の視点が饒舌に展開されるでしょう。もしかしたら8月1日に公開される次の記事でまったく展開がひっくり返ってしまう可能性だってある。「許す/許さない」「受容する/しない」という価値基準とはまったく異なる視点から描いてくると思う。これはそう単純な問題ではない。文中にも「愛憎」というキーワードが頻出するあたり、彼本人も的確な単語を見つけられていない、あるいは連載後半のために秘匿しているのかもしれない。ただ、僕もやってみて思ったのはこれは大変な作業である。なにしろ人類史上初めての「悩み」なのだから。

少し整理してみよう。ルーツが空洞化していることは共通している。そして周辺環境は「ニュータウン」と「新興住宅街」で成り立ちはまったく異なるが「地縁がまったくない」「親がその土地をまったく知らない」という点では共通しているので、そこに強烈な差異は見出せない。とすれば手がかりのヒントとなるのは<自然の取り扱い>なのかな、と近所を1時間ほど歩いて発見した。この後の章では私の地元「相模原」についての詳細を書いてみよう。

中島晴矢は軟弱者である

中島晴矢は自分のことを賢いと思っている。そのことをみんなが知っている。だから僕と中島晴矢はいつも渋家では「飛び道具」だった。正統派ではない立場なのはお互いに自覚している。その「飛び道具」としての精度を競った。認めたくはないが、今回は「認める」という意図でこの文章を書いているので、認めるけれど……僕と中島晴矢は「カッコつけた姿が、崩れた瞬間」が一番面白い。それは齋藤恵汰やとしくにの接し方で分かる。「カッコイイ」とか「能力がある」で世間を乗り切ってきたわけじゃない。「カワイイ奴よのぉ。許してやるか」という父性側の寛大な態度によって我々は生き延びてきたのである。

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