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体育祭実行委員の記憶 | オープン日報(23年1月24日)

本の編集者、1年目。はじめての転職。今日の日報です。

1/24(火)

●勤務

13:00 - 18:00 / リモート/ 元気

●本日のタスク

  • ヒアリング依頼

  • フィードバック面談

  • 読書

●残タスク

  • 企画

  • 打ち合わせ同席

  • 目標設定

  • アポ取り

  • TOB調べごと

●雑感

フィードバック面談があって、この半年どうですかと聞かれた。
入社して半年、社内でも「どう?」と聞かれることは多かった。

「楽しい」と「ありがたい」しか言ってない気がする。

NewsPicksの本が本屋さんに並んでいるということは、ソフト・ハード両面でそこに配本される仕組みが作られているということで、過去にチームメンバーが、一つ一つ誰かと連絡をとって築き上げてきたもの。

わたしが未経験で転職してきて時間とお金を投資してもらえているのは、3年間で築き上げられたチームがあるからだし、安心して家で働けているのは、ユーザベースグループが人事やシステムに投資してくれているからだし、PCが家にあるのも、ITチームがベンダーさんに手配してくれたから。

それに人との相性なんて、もうスーパーハイパーミラクルなのだし、奇跡に感謝としか言いようがない。

「ありがとうございます」と言いすぎて、「仕事ですから」と言われることもある。それでも、ほんとにありがたいなって思っている。

「ありがとう」の裏側を語ると「何事にも感謝してていいやつでしょう」という気持ちが透けて見えてしまいそう。
そういう面もなくはない。たぶん。人間だもの。

でもそれ以上に、本当に書いているだけで胸がいっぱいになりそうなほど、自分以外の人が築き上げてきたものへの感謝があって、どうやったらこの気持は伝わるのだろう、たぶんぜんぜん伝わってないんだろう、って思っちゃうから何度でも言ってしまう。

たとえば、誰かが本をSNSにあげてくれるのだって、いろいろな工程がある。

①的場のために本についてツイートしようと思いつく
②写真をとる
③引用するための的場のツイートを探す
④文章を考える
とか。そもそも自分のことを思い出してくれるだけでありがたいのであります。

自分だって同じことをすることはあるし、いちいち面倒なことをしているとは考えない。でも、人がしてくれるとそういう工程が頭に浮かんで、「ありがとうございます」と思う。


なんでそう思うのか、一度考えたことがある。

それは体育祭の副委員長をやったせいなんである。

わたしの高校の体育祭はかなり盛り上がる。1年がかりで準備する。2年生のとき、体育祭実行委員の副委員長をやった。副委員長って正直、責任もないし名前ばかりのお得な役職なのだけれど、物事の裏側を見るいい機会ではある。

リハーサルの日かなにかに、朝早く校庭のライン引きをした。いつもは、ライン引きの担当の人がやってくれているのだけど、なんでだかその日はわたしが手伝った。理由は忘れた。

校庭の線1本も、なければ体育祭は大混乱に陥る。
でも普段は、そこにあることもないこともまったく意識しない。

カラーコーンひとつだって、誰かが手配して「この時間にここに置く」という責任が果たされたからそこにある。

カラーコーンは、そこにあることが当たり前で、なければ大問題。あることによって、むしろ存在感がなくなっている。
そういう仕事ってたくさんある。水とか、電車とか、家とか。

「●●さんが手配してくれたから、パン食い競走のときにパンがある」
「〇〇さんが広報してくれたから、今日同じ場所に2000人もの人が集まっている」
「委員会と先生のおかげで、いま3年生が体育祭という場を創れている」

そういうことに気づけたのが、体育祭の副委員長の経験だったんであります。

飲み会とかでたくさんの人数が集まっているときにもたまに思う。
この人たちがいま同じ場に集まれているのって、お店があいていて、この日にやるよと情報がきちんと流れて、みんなが電車に乗ってちゃんと来てるからだ。とか。

言いたかったことは、わたしが「楽しい」ということは即、「ありがたい」と直結しているのです。

いま佐川急便のひとが宅配物を持ってきてくれた。
ほんと、寒い中ありがとうございます。

世界は誰かの仕事でできている。
という広告があったけど、
いくら「仕事」でも、ありがたいものはありがたい。


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