距離を移動するということ
ネットフリックスのドラマを見ているときにこんなフレーズがあった。
セレブは、フランスから、ニューヨークをプライベートジェットで数時間で移動する。
その距離は13,000km。
そして、僕は思った。
僕はその距離を1年間かけて移動する。
それは、単にある一点から一点へ移動するという結果としては同じである。
そして、一日で移動するのと、一年かけて移動するのとでは効率的に考えると、圧倒的な違いであり、無駄な時間を費やしているということもできる。
僕は旅をしているなかで、この無駄を楽しんでいるといっても過言ではない。
初めてみる景色、初めて出会う人、はじめて食べる料理。
全ては、ある種の無駄であり、効率的に生きようと思えばそんな経験はなくても生きてゆける。
しかし、その無駄には、人生を豊かにするエッセンスが含まれているのではないか。
Mr. Chirdren の名曲 "Hero" の最後の大サビにこんな歌詞がある。
「人生をフルコースで深く味わうための、いくつものスパイスが誰もに用意されていて、時には苦かったり、渋く思うこともあるだろう。そして、最後のデザートを笑って食べる。君のそばに、僕はいたい。」
この歌詞は、どちらかというと、困難や失敗をしても、それは人生においてのひとつのアクセントであり、その時には、辛かったり、苦しかったりするかもしれないが、それがあるからこそ、楽しさや喜びも倍増する。
というようなことを感じとれる。
僕にとって、無駄も同じで、ある種の無駄を贅沢に謳歌することによって、見たこともなかった、美しい自然や動物や生き物に触れる。
新しく出会う人との会話でハッとさせられ、新しい価値観に出会えること。
美味しくはないのだけれど、その地域の文化や風習、気候までもが溶け込んだ料理を食べること。
それは、僕に生きているという実感とこの世に生を受けたことに感謝することができる瞬間でもある。
ハイパーメディアクリエイターの 高城剛氏 は
『「移動距離はアイデアと比例する」と実感するし、
「行動範囲は自分の可能性と比例する」とも思う。』
と Twitter で語っていた。
僕は、全くアイデアマンでもなんでもないのだが、高城氏の言っていることは、わからなくはない。
移動距離が、長ければ長いほど、文化や、風習、いわゆる常識が、違ってくることは、多いはずだ。
例えば、小さなことだが、今僕のいるアルゼンチンでは、道路で、歩行者優先ではない。信号が青だからと、横断歩道を渡っていると、後ろから来た車が、右折や左折してくるときに、轢かれてしまう。
例え、信号が青でも後ろを振り返り、車が右折もしくは、左折をしてこないことを確認してから、横断歩道を渡らなければならないのだ。
確認して、渡っていても、猛スピードでクラクションを鳴らしながら、曲がってくる車もいるくらいなので。
この国では、歩行者優先という概念・ルールはなく。車優先なのだ。
各国で、このようなことは、多々ある。一時期、日本への中国人観光客が増えた時、中国人は列に並ばずに割り込んでくるということが問題になっていた。
中国での当たり前は、日本の当たり前ではないし、日本の当たり前が、中国の当たり前でもないわけだ。
いい意味で考えると、そうした違いを体感することで、新しいアイデアが生まれるというのはよくわかる。
実際に、海外でみてこと、聞いたこと。それにより、日本にないビジネスを立ち上げたりするケースはよくあることだ。
僕は、これまで、4万キロ以上を自転車で走ってきた。正確には、測っていないが、それくらいだと思う。
僕は、距離を移動するのが好きだ。
これからも、距離を移動しながら、無駄を楽しんでいきたい。
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