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活字の力。「今だからこその文章という名の娯楽。」


 今から10年くらい前だろうか、

本屋で異常に目に止まった雑誌があった。

そこには大きくこう書かれていた。

「活字の力」

PENという雑誌だったと思う。

旅に出るために、なるべく無駄遣いをしないように生活をしていた僕は、少し立ち読みをしただけで、買わなかった。

内容は、有名な小説や経済書、歴史書、あらゆる分野の本のことが紹介されていたような記憶がある。


 近年、youtube やその他動画媒体が隆盛をしてきて、本や活字媒体が駆逐されているような雰囲気もある。

しかし、ラジオが出てきたときにも、テレビが出てきたときにも同じように活字媒体は、駆逐される危機にあったのだ。

そして、今回は情報革命による、インターネット。

メディアごとでいうと、新聞の売れ行きが落ちたり、雑誌が売れなくなったりはしていると思うが、活字がなくなっているわけではない。

新聞も雑誌も紙媒体に加え、ネットでも販売を続けている。

活字の起源で言うと、紀元前3200年頃の西アジアのシュメール人の都市ウルクで使い始められた絵文字だと言われている。

日本語のルーツである、中国の漢字が生まれたのは、今から3300年前(約紀元前1300年)。

日本にその漢字が最初に伝わったのは、金印の時代、1世紀だと言われている。

5000年以上前に生まれ、未だに使われ続けている活字が消滅することなどあるのだろうか。


 最近、note を始めて、「活字の力」という言葉を思い出した。

正直始める前は、youtubeの方がいいのではないかなどと考えたが、トラブルもあり続かなかった。

そして、noteを投稿することはさておき、他の人の文章を読んだときに、久々に覚えた感覚があった。

読むことはおもしろい。

いい文章は、読んでいくごとに集中でき、頭の中がスッキリしていく。

文章の内容を、脳を目一杯使って想像している感覚。

長いこと旅をしているので、数年間きちんと日本語の本を読んでいなかった僕にとっては、ある種の衝撃だった。

近年、ネットフリックスなどの動画ストリーミングサービスが活発で、友人などと映画や、シリーズを見ることはある。

しかし、映画やストリーミングサービスを見ているとき、映像の素晴らしさ、ストーリーのおもしろさで、衝撃や感動を感じることはある。

しかし、先ほど述べた、脳を目一杯に使って、想像している感覚というものはない。

物語を読むという行為は、能動的な脳の働きであり、映画や動画を見ることは、受動的な働きのように感じる。

そう考えると、文字を読む。文章を咀嚼しながら読み進めていくということは、人間にとってなくてはならない、この上ないエンターテインメントなのではないだろうか。

そして、文字を読むことで、想像力も鍛えられると、僕は思っている。

このnoteという、ツールの中には、有名な人の文章や、まだ名もない作家たちの素晴らしい文章が埋まっており、このツールに出会えた喜びと共に、もっとうまく文章を書けるようになりたいという感情に駆り立てられている。


 文章は、自分が死んだ後も、後世に残っていく。

今のyoutubeの動画は、50年後に価値があるとは思えないが、文章に関しては、50年前、もっと言えば500年前のものでさえ、現代の教養や、娯楽になっているのである。

自分の書いた文章が、子供や孫、またその先の代まで、読まれ続けると考えると素晴らしいではないか。

だから書かなければならないし、書かないという選択肢はないように思う。

僕は、「活字の力」を信じ、文字を描き続けようと思う。


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