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【短編小説】ガラスの手 #シロクマ文芸部

お題「ガラスの手」
文字数:2442文字

ガラスの手のようだと思った。
透明感のある肌、すらっと節がないかのように伸びた指、香奈の手はまるで作り物のようだった。
はじめて会ったとき、僕の視線はその手に釘付けになった。

「和彦、話があるんだけど」
夕食で使った皿を洗い終えた香奈が、そう言いながらキッチンから出てきた。
僕は見るともなしにテレビの天気予報を眺めながら、グラスに残ったビールを飲み干した。
「どうしたの?」
ダイニングテーブルの向かいに座り、自分の手元に視線を落としながら、彼女は言い辛そうにしている。
天気予報の後のCMが終わり、バラエティ番組がMCの芸人の賑やかなタイトルコールで始まった。
僕はリモコンでテレビの電源を切り、もう一度「どうしたの?」と訊いた。
静かになった部屋の中で彼女は顔を上げ、少し笑顔を見せながら、
「田舎に帰ろうと思うの」
と言って、震える唇を真一文字に結んだ。
このままだと、こういう日がくることは、どこかで分かっていた。

付き合い始めて5年、それから半同棲のような状態が続いている。
僕が28歳になったということは、香奈はもう33歳だ。
会社では部署は違うものの、先輩と後輩。
入社した年の忘年会で距離が近づき、僕が休みの日にデートに誘ったところから関係が始まった。
彼女が年上だったからか、恋愛の波はそれほど大きく盛り上がることはなく、しかし確実に凪の状態で続いていった。
僕が段々と任される仕事も多くなり、忙しくてゆっくり会えない日が続いても、彼女はただ穏やかに待っていてくれた。
このまま結婚するんだろうなと思っていたが、その反面、このまま結婚して良いのかという気持ちがあったのも確かだ。
彼女に不満があるわけではない。しかしどこかに物足りなさも感じていた。
それに僕はまだ若い。それが自分勝手な考えだということは充分に分かっていた。
分かっていたが、ただ日常は過ぎてゆき、年上の彼女は30歳になり、31歳になりと時間は待ってはくれなかった。
結婚する気がないなら、別れた方が良かったのかもしれない。彼女も早く次の相手が探せたはずだ。
しかし僕はずっと、少しずつ強くなっていくプレッシャーの中で答えが出せずに、ずるずると問題を先送りにしてきた。
そして、逃げていてもその日はやってくるのだ。

「ごめんね。でも仕方ないよ。和彦の気持ちもわかるから」
香奈がテーブルの幅以上に遠くに見えた。そして少しずつ遠ざかっていくように。
その時になって僕は自分の愚かさに気がついた。
失いたくない。本当は分かっていたはずじゃないか。
「ごめん、香奈。ずっと先送りにしてたけど、別れたくない」
そう言う僕の視線に顔を向けず、香奈は膝の上に置いていた両手をテーブルの上に出した。
「遅いよ和彦。もう待てない」
「それじゃ、すぐ結婚しよう」
その言葉に彼女は苦笑いを浮かべながら、僕がプレゼントした指輪を外してテーブルに置いた。
「それじゃって、それがプロポーズなら寂しすぎるよ」
「…ごめん」
沈黙の中で、僕は香奈の手を見つめていた。
そして気がつくといつの間にか両手を伸ばし、彼女の手を掴んでいた。
あのガラスの手には年相応のシワが刻まれはじめている。
それが僕と過ごした時間に見えた。
ふたりで出掛けた街、泊まった温泉宿。夕陽を見ながら歩いた砂浜。
いくつもの思い出が溢れ出し、僕の頬を止められない涙が伝ってテーブルに落ちた。
そしてその小さな水たまりは、少しずつ少しずつ大きくなっていく。
僕は香奈の手を両手で包むようにして撫でながら、何か言わなければと思ったが、また「ごめん」と言うのがやっとだった。
「謝らないで」
彼女はそう言いながら、自分の手を包む僕の手を眺めていた。


「銀婚式おめでとう!」
久しぶりに家にやってきた子供たちがそう言うと、和彦が小さな箱を取り出した。
そして私の左手を掴むと、薬指に箱から取り出した指輪をはめた。
「あまり高いものじゃないけどね。今までありがとう」
「もうガラスの手じゃないわね」
私は指輪をはめてもらった手を眺めながら言った。
付き合い始めた頃、和彦はいつも私の手を綺麗だと言ってくれた。まるでガラスの手のようだと。
本当はあのとき別れていたはずだった。

別れを告げた時の和彦の反応は思った通りだった。
「別れたくない、結婚しよう」そう言うと思っていた。
しかし私はもう先が見えない関係に疲れてしまっていた。
和彦にもらった指輪を外し、別れる気持ちが揺るがないものだと伝えたつもりだった。
ところが、指輪を外した手を和彦が包み込むように握ってきたとき、私の全身は電気が流れるように反応した。
和彦の節の太い指、肉厚な手のひら。その体温。
付き合い始めの頃の気持ちが蘇ってきた。
私はずっと、自分が年上だということで和彦に遠慮してきたと思う。
その気持ちすら、自分の中で押し殺してきた。
嫌われたくないと。
失いたくない気持ちが、自分を疲れさせていたのかもしれない。
私ははじめて自分の本当の気持ちに気がついた。
そしてやっぱり私は和彦の手が好きだった。この手に包まれる感触が好きだった。
いつまでも包まれていたい。
そう思うと溢れるように涙が流れ出した。
決められなかったのは、私も同じなのだ。和彦だけじゃないのだ。
私はしばらく泣いていた。時計の針の音だけが耳に響いていた。
そして私は和彦に訊いた。
「ずっとこの手を握っていてくれる?」
「え?」
「え、じゃなくて。ずっと握っていてくれるか訊いてるの」
私の珍しく強い口調に驚いたのか、和彦は目を見開いたまま、頭を二、三度縦に振った。
そして私たちは夫婦になった。
「いかにも姉さん女房だよね」
みんながそう言うような夫婦に。

「金婚式もお願いね、もうガラスの手じゃないけど」
「そんなことないよ、今でも綺麗だよ。ずっとこの手が好きだよ」
和彦が私の手を包み込む。
「ハイハイ、もう子供の前でやめてよね」
長女が呆れるようにして言うと、長男もつられるようにして笑った。
二人の手も私たちの手に似ている。
そろそろ包み込む相手、包んでくれる相手を連れてくる頃かも。

(終)

小牧幸助さんの『シロクマ文芸部』イベントに参加させていただきました。







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