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「いまだ生(死)を知らず、いずくんぞ死(生)を知らん」

黄昏時の散策。その後、材木座海岸前の明治から続く酒屋・角打ちの萬屋商店へ。
週に一、二回、東京で会議、打合せに出かける以外は、鎌倉でデスクワーク。やりとりは、メールかリモートミーティング&セミナーの日々。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」とはいえ、今年はコロナ禍の渦中、いつもの年にもまして、月日の過ぎ去るのが速い。
いままでも、酔生夢死、胡蝶の夢、邯鄲の枕のような日々だったのだけれど・・まさに光陰矢の如し。
馬齢を重ね、少年老い易く学成り難し。やれやれ・・・。

業を背負っての輪廻転生、六道遊行の旅の果て、果たして今生は衆生世界のどのあたりか。
地獄道に餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道に天道・・・。
ここがたとえ天道だとしても、「天人五衰」のおとろえ、死の兆しからは逃れえない。

孔子は論語には「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」という言葉がある。
「未だ人間としての生き方が解らないのに、どうして死のことが解るだろうか」というような意味だろう。いかにも「怪刀乱心を語らず(理屈では説明しきれないような、不思議な現象や存在)」という孔子らしい言葉。
「語りえないことについて人は沈黙せねばならない」というウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の結びのフレーズを思い出す。

しかし一方ハイデガーは「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」という言葉を残している。
必ず終わりがある「存在」である私たち人間は、その終わりを自覚するからこそ「現在」すなわち「生」を実感できるということだ。
免疫学者としてノーベル賞候補にのぼり、能作家、文筆家としても知られる敬愛する故・多田富雄さんの「能とは、死者のまなざしで生者を見つめること。死者の側から生を浮かび上がらせること」というような言葉を残されている。

さて、「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」か、「いまだ死を知らず、いずくんぞ生を知らん」か、どちらが正解ということはない。

最近、死者を送るとはどういうことかについて考えることを仕事で求められているので、生きること、死ぬこと、未生、死後・・・、私が生を受ける前に生きていた人たち、私が死んだ後も生きていく人たちに思いをはせ巡らせる日々。

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