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黄エビネが咲く庭で (第三章 蒼生の母の病、夫婦の愛)

第三章 蒼生の母の病、夫婦の愛

 蒼生の母は、膠原病という難病の一種を20年以上患っていた。蒼生の母は、膠原病によって腎臓が痛んで、高血圧になっていた。そのため、血圧を下げる薬と、血液をサラサラにする薬と、膠原病の炎症を抑える薬を服用し続けていた。
 主治医の治療のおかげで、治療開始後まもなく血圧は順調に低下した。だが、膠原病による腎臓の炎症だけがいつまでも続いた。蒼生の母は、毎回受診たびに血液を検査されていて、その結果を見て主治医が腎臓の炎症を抑える薬の量を調節していた。
 主治医は、腎臓の炎症を抑える薬をいつまでも使い続けるのは良くないと考えていたが、いかんせん炎症が完全に治る気配がないため、仕方なく炎症を抑える薬をごく僅かに処方し続けざるを得なかった。
 その治療のおかげもあってか、蒼生の母は3年前くらいまでは、健常人と全く区別がつかないくらい元気だった。

 ところが、膠原病と診断されてから20年ほど経過した年の冬、ある日の昼間に、蒼生の母は突然体調を崩した。
 県外在住の友人との久しぶりの会食に、自ら運転する車で向かう途中、蒼生の母は突然、首の後ろから後頭部かけて、激しい頭痛に見舞われた。蒼生の母は
「もうちょっとしたら、すぐに痛みは治るかもしれない」
と思い、そのまま友人との待ち合わせ場所に向かった。ところが、友人と会って食事しながら会話していても、いつまでも頭痛は治らず、むしろ痛みが増す一方だった。さらに、吐き気も催してきた。

 ここまで状態が悪くなって、さすがに蒼生の母は、友人に自身の体調不良を訴え、早々に帰宅することにした。友人は、車を運転して帰るという蒼生の母に電車で帰ることを勧めたが、蒼生の母は
「車を置いて帰ると迷惑がかかるし、車を取りに来る電車代も勿体ないから」
と言って、体調がすこぶる不良のまま、自分で車を100km以上運転して帰宅した。そして、帰宅した直後、自宅の玄関で意識を失って倒れた。体調を崩した日の18時過ぎのことだった。

 蒼生の父は驚いて、すぐに救急車を呼んだ。そして母を運ぶ救急車に自分も乗り込んで、一緒に病院について行った。自宅から搬送されるA病院までは、車で15分から20分程度で到着するはずなのだが、蒼生の父にとっては1時間くらいの時間がかかったように感じた。救急車が急いでも、道路が混雑していて、思うようにペースが上がらなかったからだ。
 救急搬送先のA病院では、蒼生の母を検査し、倒れた原因を探索した。その結果、蒼生の母は、心臓の血管が破裂しかかっている大動脈解離という状態だった。そして直ちに手術をしなければならない、極めて危険な状態だった。

 ところが、救急搬送された病院では蒼生の母を手術できなかった。
 元々蒼生の母は血管が細い上、長年服用してきた腎臓の炎症を抑える薬の影響で、血管の内側がボロボロになっていた。そのことにより、手術をしても解離している心臓の血管を修復させるように縫合することが極めて難しかった。だから、今のA病院では手術ができないと、蒼生の父は救急医から説明された。そして、救急医から
「ここから行けるB病院なら心臓血管の手術で日本でも有名な先生がいるから、その先生に紹介させて欲しい。その先生なら対応できるかもしれない」
と治療の提案を、蒼生の父は受けた。蒼生の父は、蒼生の母をB病院に転院させること、そして手術を受けることを即決した。

 蒼生の母は再び救急車に乗せられ、蒼生の父も医師と一緒に乗り込んだ。そして救急車はそのB病院に向かって移動を開始した。
 しかし、冬の道路は、通行する車両によって踏み固められた雪の影響で、非常に滑りやすく、また路面がガタガタに荒れていた。そのため、救急車は思うようにスピードを上げられず、時折大きく揺れ、滑ったりしながらB病院に向かった。
 蒼生の父は、
「こんなペースで、B病院での治療に間に合うのだろうか?母に何かあったらどうすればいいのか?」
と、ひたすらに蒼生の母を案じるばかりだった。
 蒼生の母はB病院への搬送中、ほとんどの時間、意識を失っていた。だが母は、蒼生の父が救急車に一緒に乗っていることをわかっているらしく、時折意識が戻ると母は頭をもたげて父の顔を見て、父と目が合うと安心したような面持ちになった。そして再び、意識を失い昏睡するのだった。

蒼生の母の治療

 そのままB病院に緊急入院した蒼生の母は、まずは検査を受けた。蒼生の父は、入院の手続き自体が初めての経験だった。病院の看護師や事務職員からの説明を受けながら、入院の手続きや市役所にもらいに行く書類の準備などをした。蒼生の母は難病に指定されている膠原病を患っていたため、さまざまな公的支援を受けることができた。そのため、今回の入院でも市役所に書類を申請することで、さまざまな支援を受けられると蒼生の父は説明を受けた。
 蒼生の父は、自分の妻の容体が心配で心配でたまらなかった。看護師が一生懸命説明してくれていても、気を抜いてしまえばあっという間に説明内容を忘れてしまいそうだった。
 だが、妻が今後治療を受けるために必要な手続きだということで、父はなんとか踏ん張りながら、とにかく言われたことを忠実にやるしかないと、看護師からの説明を受けた。手渡された書類には、看護師が書き込んだメモがたくさん並んでいた。看護師も、蒼生の父が気もそぞろになっていることがよくわかっていたようで、入院や手術までに必要なことを目立つように、わかりやすく書き込んでくれた。
 蒼生の父は、その看護師の心遣いが痛み入り、自分と妻のために懸命に尽くしてくれているその姿に、ただ感謝しかなかった。

 蒼生の母は、B病院での検査と集中治療室への入院が済んだ。
 蒼生の父はB病院の主治医から、蒼生の母の今後の治療について説明を受けた。
 主治医は、緊張した面持ちで蒼生の父の正面に座り、外来の机から手術の説明用紙を取り出し、それを見せながら病状から説明した。
「奥さんは現在、心臓から出ている太い血管が破れかけている状態です。太い血管が破れたら、命に関わります。なので、急いで人工血管に交換する手術を受ける必要があります。
 しかし、奥さんの血管は、かなり痛んでいて、手術が難しい状況です。おそらくですが、長い間飲んでいた薬の影響かもしれません。奥さんの血管と人工血管をつなぐ手術の時、奥さんの血管が脆いため、人工血管とうまくつながるかは、手術してみないとわかりません。また、通常の手術よりも手術時間が長くなると見込んでいます。
 そうなると、奥さんの体力が心配です。奥さんは、もともと膠原病で腎臓を患っていたんですよね?」

 主治医がそこまで説明して、蒼生の父の様子を見た。蒼生の父は、
「手術が難しくても、それしか手がないなら手術を受けさせたい。お金がいくらかかっても、それはなんとかするから、手術してもらえないか?」
と主治医に懇願した。

 それを聞いた主治医は、手術を実施することの覚悟を決めたようだった。だが次の瞬間、主治医はまた表情が暗くなった。主治医は、
「奥さんは、おそらく今回の手術で腎臓に非常に大きな負荷がかかり、人工透析をしなければならなくなる可能性があります。できれば人工透析にならないようにしたいのですが、奥さんの血管も腎臓も、非常に弱っています。今回の手術に耐えられるか分かりません。
 それでも、奥さんに手術を受けてもらいますか?」
と蒼生の父に尋ねた。

 蒼生の父は、
「人工透析になっても、それで妻が助かるなら、手術をやってほしい」
と主治医にすがるようにお願いした。

 主治医は、蒼生の父のその様子を見て、意を決した。そして、再び外来の机の引き出しから書類を1枚取り出した。手術によって人工透析を受けざるを得なくなってもそれを受け入れるという同意書だった。
 蒼生の父は、その同意書を受け取り、その場で手術を受けることと、それによる人工透析も受け入れることを同意し、サインした。
 それらの同意書を受け取った主治医は、引き締まった表情で
「では、これから手術に入ります。お父さんは、手術室の前の椅子など、体を休めるようなところで休んでいてください。手術が終わるまで、かなり長い時間が予想されます。もし困ったことがあったら、手術室の近くにいる看護師などに相談してください。一緒に手術室まで行きましょう。」
と蒼生の父に伝えた。そして二人は並んで外来から出ていった。
 主治医はそのまま、手術室に入って行った。蒼生の父には、その主治医の後ろ姿が少しばかり神々しく見えた。
 蒼生の父は、手術室の扉が閉まるのを見届けると、もはや主治医に縋るしかなかった。蒼生の父にできることは、神様に妻の無事と手術の成功を祈ることしか残されていなかった。

 蒼生の父は、主治医から手渡された書類を封筒に入れ、手術室の前の椅子に腰掛けた。時計はすでに23時を過ぎていた。
「なんとか手術が成功して欲しい。無事に戻ってきてほしい」
 蒼生の父は、ただそれを祈り続けていた。
 そして、椅子に腰掛けたまま、手術が終わるのを待っていた。
 蒼生の父は、これまでの心労からか、度々うとうとと浅い眠りに落ちながら、目が醒めることを繰り返した。

 手術は、8時間半以上かかる大掛かりな手術となった。
 手術が終わったのが翌日の朝7時半を過ぎた頃だった。
 主治医、麻酔科医、看護師、臨床工学技士など、蒼生の母の手術に関わった全員の懸命な処置と尽力によって、蒼生の母は一命を取り留めた。主治医は、手術の様子を一通り、丁寧に分かりやすく説明した。それを聞いた蒼生の父は、目に涙を浮かべながら
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
と何度も繰り返し、お礼を言った。
 その姿を見た主治医も手術室の看護師も皆、安堵の表情を浮かべた。

 手術が終わった次の日から、蒼生の父のお見舞いが始まった。
 蒼生の両親が、お互いの愛を確かめ合う日の始まりでもあった。
 しかし、蒼生の母の状態は予断を許さなかった。

(第四章に続く)

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