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三田三郎歌集『鬼と踊る』によせて

敬称略にて失礼します。

 

だめな大人。カッコ悪い大人。

酒を飲み、飲み過ぎて嘔吐する。会社は恐らくブラック企業で、理不尽な扱いを受ける。そしてまた酒を飲む…三田三郎の歌集『鬼と踊る』を通読して立ち現れるのはそんな大人だ。酒を飲むからだめになるのか、それともだめだから酒を飲むのかは、分からない。でも、この世の中が灰色なのは確実。だとしても生きてゆく、例えどんなにカッコ悪くても。だめなのもカッコ悪いのも、もしかしたらshitな社会を生きるための甲冑なのかもしれない。だとしたら、だめでもカッコ悪くもない、生身で生きている人たちは、一体何なのだろう?

 

一番心に残った一首を引こう。

前もって厳しい罰を受けたのでそれ相応の罪を犯そう/三田三郎

三田三郎『鬼と踊る』

 

わたしはまだ評と自分語りの区別がついておらず、本当に拙い書き手だ。しかしこの一首を見た時「それな」と思った。安易な共感は失礼なのかもしれない、でも、いまの生活に一番刺さった作品がこれだった。

本来なら、罪を犯した後に罰を受ける、というのが正しい順番のはず。なのに「前もって」、例えば子供の頃「厳しい罰を受け」るような、様々なしんどい経験をしてしまう人生というのがある。
親の仕事が忙しかったり、親から受ける期待の方向性がちょっとおかしかったり、親たちが喧嘩したり、小学校でいじめられたり、塾で先生に殴られたり…といったような。そうやって大人になると、いつしか我慢が最優先になり、限界まで自分を押さえつけた結果、ある日突然仕事に行けなくなる。

何を隠そう、これはわたしのことだ。当然のことながら、沢山の仕事を周りに押し付け、尻拭いをさせた。公的な補助も受けた。お詫びと感謝の気持ちは大いにある。けれど、それはこれまで生き方が下手だった分の、そしてこれから苦しくない生き方をするための「それ相応の罪」でしょう。加害者だったことが一度もないはずはない。でも、無責任な自己肯定によってしか自分を立て直せないならば、これまで辛かったんだもの、そのくらいしたっていいじゃないか。わたしにこの歌はそう聞こえた。


先日地元で久しぶりに友人に会った。郷土料理のほうとうをすすりながら何度も「もう努力したくない」と口走るわたしに、友人は笑っていた。もちろん努力の方法は知っているのだが、最近は、良くも悪くも色々な力が抜けてしまった。前は良い釣り場を探しにあくせく動いていたが、いまは好きなことをしながら釣り糸を垂らしてじっとしているような心持ちだ。相変わらずお金はほしいけれど、なんとか上手いことやれないかと、自分を殺す努力ではなく自分を生かす努力ができる場はないかと、図々しくなっている。

小学校の合唱部を描いた児童書『ラベンダーとソプラノ』に、子供の台詞として「頑張ることと楽しむことは両立できないと思ってない?」というようなくだりがあった。そうそう、そういうのが欲しいのだ。

🍩食べたい‼️