「ZINEはもうオワコン」から考えた5つのこと
この前とあるSNSで「ZINEはもうオワコン(終わったコンテンツ)」という投稿を見てしまった。
ええっ、もう?
最初に「●●はもう終わった」と言うと最先端ぽくなるけど。
みんなが関心を持ち始めたものを好きでいつづけるのは野暮ったい、という感覚は分かるけど。
うむ、そうか。もうそんな時期なのか。
ZINE(ジン)とは、とGoogle検索するとAIが答えてくれた。すごい時代になったもんだ。
19世紀後半から20世紀初頭のアメリカが発祥とされ、黒人による文学、SF、パンク、フェミニズム、ゲームなどのジャンルで、個人やファン同士、仲間同士が、通常の書籍流通にのらない自由な表現の場として「ZINE」を選んできた。
日本でも、コミックマーケットによる大規模な同人誌販売の歴史があり、それを「ZINE」文化の流れの中に位置付けることもできる。
以上はWikipediaを参照した。
コミックマーケットの同人誌もZINEの歴史の一つに入る、という書き方をすると「ああ、あれもそうなの」とピンとくる方が増えるかもしれない。
ただ、やっぱり人口に膾炙しているとは言えないんじゃないかな。
どちらかといえば「サブカルチャー」な内輪の盛り上がり。(メインカルチャー、サブカルチャーという分け方自体も古びていっているみたいだけど)
わたし自身がZINEという言葉を知ったのはいつなのだろう。
実は途中まで「ザイン」と読んでいて、「ジン」なのだと知ったのは割と後だった。
幼少期、そして思春期に「作りたい読み物を自分で作る」ことの楽しさを知るきっかけになった三人の女性たちについて、去年記事を書いた。
初めて俳句と短歌の作品集を作り、文学フリマ東京で販売したのが2020年冬。
あれがZINEという存在や言葉を認識しての行為だったのか、それとも「本って自分で自由に作って良いんだ」、「子供の頃遊びでやっていたことを大人になってからやっても面白いんだ」という気付きが出発点だったのかは、今となってはよく分からない。
(「昔からZINE作ってた自分」を「迎えに行く」プロセスは、わたしも通った道だしあってもいいと思うが、過去のもの作りを「ZINE」という言葉で絡めとって平坦にするつまらなさはある。)
『野中モモの「ZINE」 小さなわたしのメディアを作る』(晶文社、2020年)は東京の本屋で購入したから、香川に移住してくる2021年春より前には「ZINE」という言葉を知っていたはず。
ただ「ZINE」という言葉を意識して使い始めたのは、香川移住直前、もしくは移住後のことのようだ。
X(Twitter)とnoteでキーワード検索すると、「ZINE」という言葉の初出は、Xが2021年1月(香川移住2ヶ月前)、noteが2022年1月。
最初の頃のXを見ていると、自作のZINEに対するコンプレックスの吐露がある。
今振り返ると「気楽に作りなよ」と言いたくなる。
最初はZINEイコール「固有名詞や既製品を多用するのはカッコ悪い、自分の内面と向き合うものじゃないといけない、自然を感じて生きてる人が出すもの、ハンドメイドとかしてるのがカッコいい、ふざけちゃいけない」というイメージだったのも興味深い。
香川暮らしが始まってからは、開き直ったのかそういう難しいことはあまり考えなくなり(それが良いことなのかは別の問題としてあるが)、これ作ったら面白そうだな~なんてことを時々呟くようになった。
夜間金庫が気になってたまらないのは自分だけじゃない、と知れたのはとても嬉しかった。そして現在に至る。
先日ZINEにまつわるリアルイベントに参加し、ZINEを作っている方や、ZINE作りに興味があるというみなさんとお話しする機会があった。
その経験をベースに、今わたしがZINEについてどんなことを考えているか、「中の人」になって逆にどんなことにとらわれるようになったのか、言いづらいことも含めて書き留めておこうと思う。
●いまがチャンスだ
ここのところZINE界隈はかなり盛り上がっている。
ワークショップや各種催しなど、たくさんのイベントが打たれている印象。
だから「ZINE作ってみたいな、どうしようかな」と迷っている方がいらっしゃるなら、是非このチャンスに動いてみてほしい。
例えば、イベントでZINEを購入してみたり、勇気があれば作者さんに話しかけてみたり。
近所で買える場所がない方は通販を利用するという手も。
自分で作りたい方はネタ出しを始めてみよう。
作り始めたら案外なんとかなるはずだ。
「この機に乗じて儲けてやろう」という、そもそも主催者がZINEにそれほど思い入れのないイベントも出てきている気がするので、出店・委託条件は注意深く見る必要があると思う。
例えば文学フリマのような、回数を重ねた歴史のあるイベントなら、様々なジャンルのZINEやそれらを作っている人たちに出会えるので、買う側読む側としても、出店者としても、最初の一歩にオススメする。
ZINE専門店やZINEを扱っているお店を訪問して、そこでお店の方に聞いてみるのも良いかもしれない。
●薄くてもいい、文字が少なくてもいい
自分のZINEは気合いが入りすぎていると思う。
厚い。文字が多い。前のめりになるのはやめればいいのに、と他人事のような感想を持っている。(結局この記事も5000字も書いてしまったし)
失礼ながら、通販などで取り寄せたZINEを初めて手に取った時、第一印象で「薄い」「小さい」と思ってしまうことがある。薄いからつまらない、厚いから面白い、という訳でもないのに。
どこかに「とにかくたくさん書いてナンボ、文字で紙を埋めてナンボ、詰め込んでナンボ」みたいな意識があるようだ。
で、校正の時に困ることになる。文字数もページ数も、増やせば増やすほど見返すのが大変だ。
数百ページを超える小説の本を見ると「うわっ時間かかりそう」「もっと薄いと思ってたのに、ちぇ」と思ってしまうくせに!
今後の目標は、もっと大らかな気持ちでZINEを作ること(もっと言えば、できれば本文のフォントにもこだわること)、分厚いほうがいいという呪いから逃れることだ。
●出すと恥ずかしい、けど
「迷っている人はすぐに作って」と言った後に書くことじゃないとは分かっているけれど。
完成したZINEを初めて人前に出す時は、結構恥ずかしい。
例えばイベントなどで、ZINEを売っている人が周りに何人もいる状態でも、すごくドキドキする。でも、イベントが始まって、何人もの人がブースの前を通りすぎていって、「誰かの目の前に自分の作ったZINEがある」という状態に慣れてくると、そうでもなくなってくる。
以前読んだ長新太さんの本に、河合隼雄さんとの対談で「自分の作品は排泄物みたいなもので、出しちゃったら終わりみたいなところがある(子供がうんちやおしっこ、おならといった話を喜ぶのは、自分の出した排泄物が「他者」になるのが面白いから)」といったことを話している部分があった。
五味太郎さんも、気に入っている自作はと問われて「発表した作品は自分の中ではもう済んだ仕事だから」というようなことを話しておられた。
おこがましいことだが、ZINEを出す恥ずかしさは、長さんや五味さんの言わんとしているところと似ていると思う。
一つ作ると、完成作品の要改善点が見えてきて、もう一つ作ってみたくなるかもしれない。
●明るくないものを求めてしまう
デザインセンスが明らかに素人のそれじゃない。ゲストをお呼びしてみました、とサラッと書いてある人の名前が超のつく有名人。もう広報誌じゃんっていうクオリティの、かなりの企業予算が投入されてるもの。なんかすごいキラキラしてて眩しいもの。
さささささっ、と後退して泥の中の巣穴に隠れる。
もっと荒削りの、泥臭く、決して明るい内容ばかりじゃない、確実に「負け」を知った、ざらりとしたコンテンツを求めている。
日が落ちてきたらひょっこり顔を出して、近くの穴にいたムツゴロウと目配せし合おうとする。
普段は「ZINEって何書いてもいいんですよ!誰でもウェルカムな媒体なんですよ!」っていう人間をやってるのに、特に疲れている時とか荒れている時とかは許容範囲が狭くなる。
「ZINEを作るのは他人と違う自分を演出したいからじゃない」とか言えてしまう自分が、結局は好きなのかもしれない。
興味関心が似た人と出会える一方で、自分の中にないものを見せてくれる、いや突きつけてくるのもZINEの面白さだし、そういうZINEのほうが受ける影響は大きいのに。
自分ヤな奴だな、と思う。
●「ちゃんとした本」への憧れ
やっぱり「ちゃんとした本」には憧れる。
「言うてもわたしのはZINEだもんなあ」という気持ちも正直、ある。
好きな出版社で、担当さんについてもらって、編集や校正があって、憧れの装丁作家さんに頼んだデザインの本を出して、という夢。
ZINEのタイトルを表記するのに『』と「」のどちらを使うか迷う時は、たいてい「ちゃんとした本」への複雑な思いがある時だ。
『』を使う時は「普通の流通にのってないだけでZINEだって本ですよーだ!」と強気になっている時。「」を使う時は「いや、そうはいってもね…好き勝手やってますんで…」と弱気になっている時。
ZINEって一部の方からは厳しい目を向けられていそうだな、と想像することもある。
直接言われた経験はないけれど、誰かがどこかで「校正もかけてないグチャグチャな文章で出版ごっこやってお金を取るなんて…出版を舐めてるよね」って言ってそう、いや多分言ってるでしょ、とは思う。
最近「俳句と短歌の作品集ZINEは当分作らない」と決めたのもそれと関係がある。
「詩歌を教えてくれる先生に対して気まずいから」とか「先生にやめろと言われたから」とかでは絶対にない。
結社で俳句を学んだり、オンラインで短歌の勉強をしたりする中で、作品の良し悪しに関する知識を得たり、詩歌の出版文化について知ったり、様々な句集歌集を読んだりしているうちに、自作のクオリティがどの程度のものか、いかにちっぽけな存在なのかということに気付くようになった。
冷静になったというか、物分かりがよくなってしまったというか。一頃のような冒険心はなくなってしまった。
だから、あの頃勢いで作っておいてよかった、という思いもある。ZINEは「作ろう」と思ったら、冷静にならないうちに、しがらみのないうちに、思いが強いうちに作っておいたほうが絶対にいい。
以上が、このたびZINEについて考えた5つのことだ。
この先、ZINEはどうなっていくんだろう。
作り続ける人は作り続けるだろうし、作るのをやめる人はやめるだろう。新たに作り始める人も出てくるだろう。
そもそも、ZINEを作り続けること、作り始めること、ZINEを買って読むということ自体が恵まれた行為なのかもしれない。
ZINE作りに使う機材、経費、時間的精神的余裕。
いくら「ありあわせのものでいい、お金をかけなくていい、手作りでいい」と言っても、手作りできること自体が特権的である、という視点は忘れないように。
自分は作り続ける人だろうか、作るのをやめる人だろうか。
できれば作り続ける人でいたいけれど。
それがZINEという名前のものじゃなくてもいい気はする。
どちらを選んだとしても、表現は続けていたいと思う。
🍩食べたい‼️