不安定な韓半島 太平洋戦争終結まで

隣国は強すぎても、弱すぎても困る
日本は、何のために韓半島を併合したのでしょう?植民地化し、その富を収奪することが目的だったのでしょうか?そのように誤解されがちですが、そうであれば1905年日露戦争の直後に併合しそうなものですが、足掛け6年かけて併合に至っています。また、李朝政府へ、日本政府が無利子・返済期限なしの貸付を行う必要もありません。併合後も総督府や日本軍の駐留費等は、全て日本政府持ち、租税負担率も内地よりも安く設定し、赤字分は日本政府が補填していました。*

そもそも、収奪できる状態だったのでしょうか?18世紀半ばから、薪使用などのため木を伐採し、山林が荒廃していきました。すると、多少の雨でも洪水が起き、土砂が田畑に流れ込み、農業生産量が減少してしまいます。しかし、治水工事等適切な処置をしないまま放置された結果、「18世紀の中葉と比べて19世紀の末には土地の生産性がほぼ1/3の水準に下がって」しまいました。**それでも、政府が減免措置等を施さないのですから、農民一揆がおきるのは、時間の問題です。(実際におきた一揆を、日本では甲午農民戦争、東学党の乱とも言います)

こうした状況が李朝末期ですから、ウマ味があるから植民地経営をやろうというわけではなかったと考えられます。最近の研究が出した結論では、総論赤字でした。(詳細は、木村光彦著「日本統治下の朝鮮」、李榮薫著「大韓民国の物語」を参照ください)例えば、日本資本が多く進出し、農民が理解できない申告制度で新たな土地調査・所有権の確定を行ったため、多くの農民が田畑を失い、半島から産出される米の半分が日本に移出された等とよく言われますが、実際には日本人の所有する田畑は10%程度に過ぎず、むしろ内地の米価が3割高かったため、日本人のみならず韓半島の人々も日本へ売り、増収となったといいます。**

では、なぜ日本は敢えて、植民地経営したのでしょう?安全保障上の理由以外にありません。隣国は強すぎても困りますが、弱すぎてもまた困るのです。もし李朝が自ら近代化し、国力を増強し、清や日本と協力してロシア帝国/ソ連の脅威を対処できるのであれば、植民地化せずともよかったでしょう。しかし、既に自国の農民一揆でさえ鎮圧あるいは鎮静化するだけの統治能力がない李朝には、無理な注文でした。

当時、ロシア帝国は、数少ない列強の餌食となっていない満州や韓半島に食指を伸ばそうとしていました。このまま日本が介入しなかったら、満州、韓半島はロシア帝国の勢力圏に落ち、不凍港として釜山や大連港を軍港とし、ロシア艦隊が日本海を我が物顔で往来し、日本はいつ北海道や佐渡、能登半島に上陸するのではないかと、終始怯えなければなりません。日本列島は、大陸に面した海岸線が長いため、守るに難しく、艦隊を十分に配備するのには、非常に高いコストがかかりますし、最悪のシナリオです。大陸から日本へ侵攻するルートは、韓半島経由が最初に想定されますから、完全に日本の物にしなくとも、ある程度国力を備えた親日政権が必要です。

日本は韓半島に兵站基地を求めた
さて、韓半島を支配下に収めたときから、厄介な重荷を日本は背負い込みます。すなわち、韓半島を守るためには、満州にある程度国力を備えた親日政権が必要となってしまいました。日露戦争の戦利品として、南満州の鉄道敷設権及び、この鉄道を警備するため日本軍の駐留が、認められました。名目は鉄道警備であるとはいえ、韓半島の北の守りの一端であることには違いありません。

要するに、韓半島の安全保障のため円滑に南満州で日本軍を展開するには、韓半島経由で物資や兵士を輸送することが重要です。そのため、朝鮮総督府の第一任務は、韓半島縦断鉄道の敷設・管理となります。それが、ソウル(京城)と釜山を繋ぐ京釜線と、ソウルと韓半島と満州の国境、新義州を繋ぐ京義線です。もちろん支線は数多く作られましたが、この鉄道経営でさえ赤字でした。しかしそもそものミッションなので、総督府が鉄道経営から手を引くことはありませんでした。

幸い韓半島の北部は山岳地帯で、石炭、鉄鉱石、を始めとする数多くの鉱物資源が、豊富かつ手つかずの状態でした。(平壌は「炭都」と呼ばれていたほどです)そこで、日本の財閥が中心になり、鉱山を次々開き、鉄道やその他の重工業を支える資源を提供することになりました。また、満州との国境近くに流れる鴨緑江、豆満江の本・支流を利用し、日本窒素の野口財閥が、水力発電所を建設します。中でも、水豊ダムは当時東洋一の電力生産を誇り、一人当たりの電力量は内地をも超えました。

そもそも野口財閥は、日本から韓半島に持ち込まれた品質改良された米の栽培に要する人工肥料を生産したのですが、他にも関連化学工場を建設し、世界屈指の化学コンビナートに成長させました。当然、この安価で豊富な電力は、同地域で重化学工業誘致の一端を担い、他にも製鉄所、金属、機械工場等へも供給されました。ちなみに、半島出身者も数多く、こうした工場の産業用工具類を製造する工作所を創業する等、工業化に一役買っていました。

こうして、日本統治下での韓半島は、鉄道、電力等の社会インフラが整備され、日本でより高く売れるため化学肥料を用いて品種改良の米を増産し、途上ではありつつも工業化も進んだ社会構造、要するに近代化を推進しました。ただ、日本にとり必要だったから行ったわけであり、韓半島のためではないですし、韓半島に頼まれたわけでもありません。

幻の日韓満経済圏
少し脱線して、1938年韓半島と満州を修学旅行で訪れた大阪府女子師範学校(大阪教育大学の前身)のスケジュール***に触れてみたいと思います。

大阪から海路下関経由で、釜山に到着しました。釜山で竜頭山を見学後、京釜線でソウルへ。翌日ソウルで景福宮など李朝の旧宮殿やパゴダ公園、総督府等を見学。翌日京義線で平壌に行き、七星門、箕子陵、伝統住宅(朝鮮住宅)を見学。翌日再び京義線と満鉄を乗り継いで満州への入国手続きを済ませ、鴨緑江を見つつ、奉天(現在の瀋陽)へ。

奉天の見学は後回しにして、翌日奉天から日帰りで撫順に行き、撫順炭鉱の露天掘り、オイルシェール工場等を見学。その日のうちに奉天に戻り、車中泊で新京(満州国の首都)へ。国務院や南嶺(満州事変時の激戦地)、関東軍司令部、忠霊塔等を見学。翌日鉄道でハルビンに行き、建国記念碑、キタイスカヤ街(ロシア統治時代に建設されたヨーロッパ風街並みで、随一の繁華街)、松花江等を見学。翌日一日かけて奉天へ戻り、その翌日国立博物館、北陵(清の初代皇帝の陵墓)、吉順絲房デパート等を見学。

翌日大連に行き、大広場(市内の幹線道路が交差するサークル。この周辺に大和ホテル、朝鮮銀行、東洋拓殖銀行、横浜正銀(現在の三菱UFJ銀行)等日系銀行の大連支店、大連市役所があった)、星が浦(海水浴公園)、油房(満州大豆の植物油抽出工場)、満鉄本社等を見学。翌日は旅順へ日帰り旅行し、白玉山(日露戦争戦没者供養塔)、水師営(日露戦争で乃木将軍がロシア将軍の降伏を受けた会見の場)、東鶏冠山(日露戦争時のロシア側の陣営、激戦地)等を見学。翌日大連港から海路で3泊し、大阪へ戻りました。

内地旅行分以外は陸軍省が旅費を負担しただけあって、戦地跡に多く連れていかれる、ハードな16日の旅ですが、「極東のパリ」・ハルビンのキタイスカヤ街で西洋に来た気分を味わい、大連のデパートでお土産を買いこんだであろう姿はほほえましくもあります。とはいえ、当時は今日見る韓半島の分断もなく、自由に日・韓・満を闊歩していた庶民の姿が見えるのではないでしょうか。

もう少し経済圏構想を俯瞰してみれば、韓半島北部での鉱物資源および水源を利用し、一大エネルギー生産地とし、周辺に製鉄所、紡績機械等の産業機械工場や化学工場、やがて自動車、船舶、飛行機等の工場も建て、一大重工業団地とする一方、電力網を張り巡らし、南部や満州にまで電気や紡績機等軽工業のための資本財(資本財や重工業製品はやがて中国全体へも)を、韓半島南部や満州から米、大豆等雑穀や衣料品等軽工業製品を取引し、日本は重工業団地内の諸企業への投資に対する配当を受け取る、というイメージでしょうか。日中戦争前ならば、皆がウィン・ウィンになれる共存関係を夢見る青写真が描けたのでしょう。

だからこそ、欧米の植民地ではあり得ない、宗主国よりも優れた社会インフラ、即ち水豊ダムや満鉄の特急あじあ号(新幹線の前身)等をかの地に設置することは、吝かではなかったのだと思います。

太平洋戦争が生んだ分断状態
しかし、夢は太平洋戦争で潰えます。日米戦争に向けて、1930年代末から内地でも統制経済が徐々に厳しくなりますが、韓半島でも適応されるようになり、それまでの大らかさが消えていきました。例えば、農家には一定量以外は全て米を供出させ、村単位で一定の生産量を強制する生産責任制等が導入され、徴兵・徴用(今日では「強制労働」と言われますが)という理由で、多くの男性労働者が家庭から奪われ、さらに銃後の生産低下を補うために、女性も工場労働者として働かざるを得ませんでした。

スローガンだけは「内鮮一体」といい、責任だけは強要しつつ、民主国が保障するものとして最も重要な人権、中でも参政権(日本政府が選んだ、一握りの旧貴族等に貴族院議員の座を与えたのみ)を与えず、開戦決断の一端を担えたわけではありません。従って、日本がこの戦争に韓半島を巻き込み、内地並み、あるいはそれ以上の「戦争協力」を強要し、これが今日に至るまで日韓関係の禍根の原因となっています。

さらに、日本人と同様に統制に協力(我慢)するよう、同化政策、皇民化政策を行いました。宮城遥拝、神社参拝等、頭を使わない型通りの行動を何度も繰り返すことを身体で覚えさせ、大衆に思考停止を求めようとする、昭和の精神論の極みです。加えて、日本社会の外で強要することは、屈辱的に捉えられるだけで、面従腹背になるだけです。

それだけ強要しておきながら、太平洋戦争は勝てる戦争でもなく、1945年5月ドイツも降伏し、自らも降伏しなければ、日本本土の焦土化しかないことが明らかであるにもかかわらず、日本政府首脳は、さらに数か月間も敗北を認めることができませんでした。この逡巡期間に、ソ連が対日宣戦布告し、満州及び韓半島へなだれ込む口実を与えてしまいます。

いくらヤルタ会談で合意したとはいえ、アメリカにすれば、原爆が完成し、もはやソ連の参戦など不要になったのに対し、1945年8月時点米軍はまだ沖縄にしか上陸しておらず、韓半島にまで踏み込めていませんでした。そこで、南下するソ連軍の勢いを止めるため、急遽アメリカが提案したのが38度線でした。そして、この合意が今日まで定着してしまったのです。

当時蒋介石政権には、韓半島にまで出兵できる余裕などなく、ソ連参戦がなければ、韓半島すべてが米軍政下におかれ、後の朝鮮戦争もなく、数年の後に独立できただろうと考えられます。いくらソ連が金日成らに多少の軍事訓練を施していたとはいえ、今日の中国大陸の朝鮮自治区以上に建国できたとは思えませんし、北朝鮮に日本が置いていった規模の重化学工業兼軍需工場群や部品の在庫等がなければ、金日成も朝鮮戦争の勝算を見込めなかったはずです。(金日成の勝算については後述予定)

よって、この日本政府首脳の逡巡は、いくら悔やんでも、悔やみきれません。

*木村光彦著「日本統治下の朝鮮」
**李榮薫著「大韓民国の物語」(ソウル大学経済学教授が、全国の農村を回って調査、研究した結果を基に書いた良書です。おススメします)
***「子供たちが見た満州1 満州修学旅行-修学旅行と戦争-」奈良県立図書情報館ホームページ
https://www.library.pref.nara.jp/event/booklist/daikanyama2008/hitosyo01.html


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