目の見えない人は世界をどう見ているのか

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んで

 障害を持つ方とコミュニケーションをとるとなったら、自然体で接することができますか?

 けっこう身構えちゃいますよね。特に初めて会ったときとか。

 以前、大学で5日間の短期のゼミをとったとき、十人前後のメンバーの一人に吃音を持つ学生がいました。ゼミ初日に簡単な自己紹介をしていったのですが、その学生はつっかえながらも、どもってしまうことを受け入れている様子で自己紹介をしていました。吃音の緊張しているようなイメージと同時に、落ち着いていたというか、堂々としていたというか、そんな対照的な二つの印象を受けました。

 それまで吃音の人と会ったことがなかったので、はじめてそのしゃべり方を耳にした瞬間、自分の中で無意識のうちに「私はこの人と会話するときにどう接することが正解だろうか」という思いが逡巡したのを覚えています。

 障害を持つ人と話すとき、相手の障害を過度に気にしすぎてもいけないし、とはいえ、障害がないようにふるまうのは変だし、、、と、なるべく顔に出さないようにしつつも内心あれやこれや考えてしまいます。

 その短期のゼミの先生が、『目の見えない人は世界をどう見ているか』の著者の伊藤亜紗先生でした。ゼミ自体は、いろんな"創造"(例えば架空の生物を考えたり、お題に沿って小説を書いたり、キャンパスに異空間をつくったり)をしてお互いに講評し合う、というもので、障害とは直接は関係ないものです。ですが、一人自己紹介が終わるごとに軽く返事をしていた伊藤先生の吃音の学生への返事が初対面なのにあまりに自然で、障害を自然に捉えていて。私はひとり静かにびっくりしました。



 そんなことがあったのが、私の中に小さくずっと残っていて、それでこの本を読んでみました。

目の見えない人は世界をどう見ているのか

 この本の趣旨は、障害を持つ人と「情報」ベースではなくて「意味」ベースで関わりましょうっていう提案です。

 これがどういう意味なのかは本を読んでいただいた方がわかりやすく面白いと思うのですが、「情報」ベースとは福祉的な関係のことで、「意味」ベースとは障害を持つ人の障害ありきの世界の見方を、健常者のそれと優劣つけないで生まれる関係のことです。

 本の内容で印象的だったのは、見える人はものを二次元で捉えがちで、見えない人は三次元で捉えているというもの。「富士山」と聞いたら裾野がきれいに広がった写真や銭湯の絵で見るような三角形が思い浮かびます。目の見えない人は、上の欠けた円錐を思い浮かべるそうです。富士山や月のように大きなものほどこの違いは顕著であるらしく、ははぁ~っと、自分が平面的にものを捉えていることに初めて気がつきました。

 また、ソーシャルビューという目の見えない人の美術鑑賞方法が載っているのですが、これがとっても素敵です。目の見えない人が「ナビゲーター」として一人入り、5~6人で美術館を回ります。目の見えない人がいることによって、自然と作品の説明や感想がより具体的な言葉になって会話がうまれるのだそうです。楽しそう。私も参加したいな……。障害が触媒として活かされたアイデア、と表現されていました。



 この本の最後に、伊藤先生のHPのURLが載っていて、そういえば短期ゼミでもそんなこと言っていたなぁと今更ながらHPを見たら、すごく面白いんです。

 いろんな方のインタビューが載っていて、どれも面白いのですが、かなり前(2014)の齋藤陽道さんとの公開筆談トークを見つけてしまいました。

 齋藤陽道さんはろう学校を卒業している写真家の方で、「声めぐり」「異なり記念日」などの書籍も出されています。

 この筆談トークの中で齋藤陽道さんが、日本語で作った思考の原石を、手話や写真で大きく削って、また日本語に戻す。と述べているんですが、私にとって新しい発見でした。

 私は生まれてこの方ずっと、日本語で生まれたぼやぼやのよく見えない思考を、日本語でなんとか形にしていく術しか知らなかったわけです。もしかしたら、健常者でも言葉にせず考える人はいるのかもしれませんが、言語化せず(写真の方ですね)に思考を詰めていくなんて考えもしなかった。現に今もnoteで言語化して思考を整理しています。それと、手話が日本語とは別の言語だという風に捉えたこともなかったなぁ。



 冒頭に戻って、障害を持つ方と自然体で接することができますか。という話なんですが。

 書いているうちに思い出しました。大事なこと。

 このnoteを書き始めて、結構序盤。5文目くらいで思い出しました。


 以前していた塾のアルバイトの担当生徒に、聴覚障害を持った子がいて、私フツ~~~に、なんの気負いもなくその子と接してたことを、、、、

 あれ、、、?そういえば彼、難聴だったな??

 忘れてた。申し訳ない。でも、その子は私のなかで、世間にいる障害を持つ人のカテゴリからスッと抜けていたことがわかりました。つまり、これが「意味」ベースの付き合いに近いのではないでしょうか。

 その子が自分の耳にコンプレックスを強く持っていることは感じていました。英語のリスニング試験の免除は喜んでいましたが、ブラックジョークだったなぁ。障害を逆手に取ったユーモアですね。



 担当の生徒だったその子には自然体で接することができていたことが判明しました。ですが、じゃあ他の人とも全て上手くできるかというと、始めにお話しした吃音のある学生に対してのように、そんなことはありません。

 伊藤先生の彼への自然な返事は、どうやら慣れの問題らしいことがこの本を読んでいるうちにわかりました。読んでいると、障害者の方と本当にいろんなことをしているんです。

 目の見えない人とボルダリングをしに行ったというエピソードが、本書一番の驚きポイントだったんですが、これで納得できました。だから自然なんだなと。経験値が違いました。

 よく考えれば、障害を持つ方とのコミュニケーション以外にも不自然になることは起こりえます。私は女子校育ちなのですが、大学受験で塾に入り、小学生ぶりに同い年の男の子と喋ったときは甚だしい挙動不審っぷりでした。これは明らかに慣れの問題です。

 それに、大学に入りたての慣れない頃に留学生と話したときも、どう接したら相手が安心するだろう、と普段より少し緊張していたのを思い出しました。

 なんだ、障害のある人と接するのも同じだ。

 障害によって社会的な制限を受けているということを忘れていいわけではないですが、人間関係を築くときは、初めはスマートにできなくても同じように慣れていけばいいのかなと思いました。



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