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頑固ないびつ

 あの焼肉屋にはもうたどりつけないのかな。

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 入社したばかりのころ、仕入れ先が接待にと両国のホルモンの焼肉屋に連れていってくれたことがある。とにかくおいしくて、ごはん大盛りをおかわりしてしまい、仕入れ先のおじさんたちと上司から「こいつ、とんでもないやつだ」というまなざしを頂戴した。あのまなざしを「畏敬」と呼ぶことにより、おかわり事件を正当化している。
 また行きたくなり、記憶をたよりにして、4年ぶりに訪問した。1週間前に予約をすます。夜、わくわくした気持ちで店内に入る。
 ちがう店だった。

 ◆ ◆ ◆
 その日の昼は、履歴書を書いていた。自己PRを苦心しながら書きながら、胸のうちには今日の夜の焼肉をご褒美としてすえていた。よくイメージで見る、目の前ににんじんをぶらさげられて一心不乱に走る馬が自身とかさなっていた。
 最後に、履歴書に証明写真を貼る。さっき、近所の証明写真撮影機で撮ってきたものだ。最近では、あの撮影機で撮った写真をネット上でダウンロードもできるのかと驚いた。
 アップの自分の顔写真を見る。右側の目や口元が、左側より少し垂れていることに気がついた。
 気持ちばかり先行して、うまくことばに落とし込めていない自己PRしかり、顔写真しかり、履歴書は僕の内外のいびつさをつまびらかにするから、嫌いだ。
 この鬱憤は、今日の夜の焼肉屋で発散しよう。

 ◆ ◆ ◆
 まさか、店をまちがえるとは。お肉自体は全体的においしかったけれど、あの店にやはり行きたかった。
 夜の両国の道を、錦糸町に向かって歩く。少しおぼろな月が空で照っている。ひとがだれも通っていないけれど、不思議とこわくなかった。
 そして、もうひとつの目的地である、銭湯にたどりついた。初めての店であるが、温かく柔らかな湯気が入り口からもれているかのようにとても雰囲気がいい。夜8時半ごろ。男湯にはほとんどひとがいなかった。体を洗って、あまり広くない湯につかると、となりで歓談しているおじさんたちの声に意識が向いた。意識は向くのだが、反響してしまい、僕の耳に届くころには声が声としての形をくずしてしまって意味を結ばなくなってしまっていた。
 ジェットバスに入ると、ほどよい力加減のジェットが体を圧す。幸せだ。このままジェットに圧され続けて、まるでさっきのおじさんたちの声のように僕の体もほろほろとくずれてしまっていう気がした。
 そしたら、もう僕という形は結ばなくなるのか。

 ◆ ◆ ◆
 家に帰る電車のなか、履歴書を思い出す。そうか、あのジェット風呂に長々とつかったとしても、履歴書が僕の形を律儀につなぎとめてしまうのだろう。
 それでもまた逃避行をくり広げてやろうと、心のなかで強く決心した。

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