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チェルノブイリ現地にて、やっと人の暮らしの存在に気づく

こんばんは、ゆきちかです。前回のnoteを東浩紀さんにリツイートしてもらった途端、「良い文章書かなきゃ!」モードに突入し、以降全く筆が進まない事態に突入しておりました…。そのことにすら気づかないまま悶々としていたのですが、6月が終わろうとする時期になってようやく気がつき、ゼロから書き直しています。

人に話を聞いて、世界の見方を更新する豊かさ

 頑張って書こうとしていたのは「チェルノブイリ行くウェーイw」状態の私が、現地にて「全然考えてなかったけど、普通に人、住んでる!暮らし、ある!!」という衝撃を受けた、という話でした。

 人を発見し、その人となりを知り、同じ時間を生きていることに気づき、その人の人生と自分の人生を並列化して考えることができるようになる。その人を知る前と後では世界の見方が変わる、というプロセス。

 「これって、児童養護施設で出会った子どもの言葉を通して、自分が暮らす地域の違った側面を見られるようになる感覚と一緒だ」と気づいてからは(あ、私、児童養護施設で心理職をしているんです)、質問したい欲求が湧いてきて、「次の方」の“つ”の段階でピーンと腕を上げていました。(“つ”の段階で挙手する人が常時4〜5人いるようなツアーだったので、自然と質問の質も上がっていく流れだったと思います)

 職場では、自分の住む地域を、同じくそこで暮らす子どもの目線を通して、という比較的範囲の狭い体験として行なっているわけですが、ツアーはこれを世界規模で行なった、という感じです。情報量も多ければ、脳内での視点移動回数とその距離感がすごい。子どもの生育歴が多くても十数年なのに対して、チェルノブイリの事故で32年分、ウクライナの歴史的には10世紀分くらいの時間移動、またチェルノブイリでは日本の原爆や原発事故に関する記念碑や展示も多くあったので、空間移動もたっぷり。廃墟からはソ連を、スマホに届く子どもの写真からは自宅を想起し、その都度頭の中では時空間を移動していたと思います。海外旅行はそもそも普段の生活を離れた「非日常」を体験するものかと思いますが、「非日常」という言葉ではまとめきれない体験でした。

 体験するまではできなかっただろう見方ができる、というのはとても豊かなことです。見方や考え方のルートが自分の中に増えていく感覚を誰かと共有できることも素晴らしい。

 その昔、私は「体験」や「記憶に残す」といった形に残らないものについての価値をあまり理解できず、「旅行」という行為にも何の意味があるのかわかりませんでした。(日常を離れて訪れたディズニーランドに不安や恐怖を感じていた子どもでした…普段お金ないって言ってる母が外食にポンと数千円払う、何かお土産を選べと迫るのが恐怖だった)

 今振り返れば、安心感の確保が十分ではない子どもで、いつでも確認できる形ある物でないと穏やかさを取り戻せなかったんだなあ、と思います。職場で暮らしをお手伝いしている子どもにも、そういう性質を持つ子はいて、寄付金なんかを頂いて出かけた旅行でも、思い出や新しい発見を持って帰ってこれない。「あ〜、こんなところに過去の私がいる…」と切ない思いをしました。

 何だか、書きながら、世界の“体験の仕方”を変える体験を提供するガイド役として子どもと関われたら楽しそうだよな…と思い始めました。“こうあるべき”という施設や学校の方針の色が強い関わりではなくて、情報提供と体験を提供するガイド。
 なるほど、東さんの仕事ってこういうことなのかしら。面白くて連日深夜(というか朝)までみんなと語り合って、トークイベントや出版だけじゃなくて旅行なんかもやっちゃう。いやはや、すごい納得した感じがあります。(そしていずれの飲み会もゴール地点まで参加していないこの悔しさ。超悔しい。)

写真を挟みたかったけど、とりあえずアップして、後々全体構成をいじっていく感じにします!書けるかどうかは別にして、書きたいことがいっぱいあるのも幸せ。地道に進めてまいります!

ゆきちかさん

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!