愚痴を言うか言わないか

お願い

これは私自身の考えや気持ちを書いたもので、不快に思う人も真逆の考えの人もいると思います。
あくまでも個人的な考えを書いたものです。
語彙力も文章力もないため偏った表現になってしまい、思ったことを思ったように言葉にできていないと思います。
不快に思われた方はその時点で読むのをやめてください。


はじめに

愚痴を言わない人、弱音を吐かない人、泣き言を言わない人…
そんな人、いるのだろうか。

私は自分の考え方に自信が持てない。
そんな私の感じることだから、世間一般の多数派の考え方とはきっとズレているのだと思う。
それでも長年疑問だったことがあるから、少し書いてみようと思う。


愚痴を言うのは悪いこと?

大人になって感じるのは、なぜ愚痴を言うことが悪いことのように扱われているのか?ということ。

愚痴を言わないこと、弱音を吐かないことが強くて美しくて大人としてあるべき姿のように言われたことがある。
愚痴を言わないことはかっこいいことなのだろうか。

確かに愚痴ばかり聞いているのは疲れる時もあるし、価値観が大きく違う人の愚痴は『なぜ?』と思うこともあるかもしれない。

それでも生きていて愚痴が全くない人なんていないだろうし、愚痴も弱音も言わないでいるのは個人的にはとても苦しい。

自己解決できる人がほとんどなのかもしれないけれど、例えば愚痴に対する明確な答えがなくたってお酒を飲みながら『聞いてよー!』と話すだけで心がスッと軽くなることがある。

でも私の周りの人は愚痴を言うと必ず謝る。私も『愚痴ってごめんね』と謝る。

友達に言うのは “良くないこと” なのだと思い、とあるSNSに愚痴を吐き出したりすることもあるのだが、そういう時に限ってタイミングが良いのか悪いのか愚痴を吐くことに対して否定的な投稿を見かけて自己嫌悪に陥ったりもする。

愚痴も弱音も悩みも、自分の心で抱え、自分の頭で考えるには限界があると思うのはおかしいのだろうか。


頭の中を整理する方法

愚痴を吐いた時に『紙に書くといいよ』とよくアドバイスされる。

視覚化することで頭の中の整理もできるし、書くことでアウトプットできてスッキリするよ!と。

なるほど!と思いやってみたことはあるが、私はどうも苦手だった。

承認欲求と言われればそれまでだが、紙に書くというのは無反応で一方通行。
視覚化されることで整理ができるというのはわかるが、そこから先…整理できて “さぁここからどうしようか” という部分は結局自分の思考しかない。

だから視覚化することで整理もされるけれど、逆に目で見ることによってダメージを受けることもあった。

目に見えるからこそその愚痴や悩みをより一層強く感じてしまい、問題解決のために更に考え、悩み、苦しくなった。

自分ひとりで考えるには限界がある。
だから人に話したいと思う。

つまり相手の反応で、これは取るに足らない悩みなのか?笑って流せる愚痴なのか?を判断している部分があるのかもしれない。

そして自分とは違う価値観の人の考え方を聞いて、なるほど!そういう考えもあるのか!そういう受け取り方もできるのか!という気付きがほしい。

だから私個人としては、愚痴も弱音も悩みも人に話すのは悪いことではないと考える。


顔で笑って心で泣く?

私の考え方はとても幼稚だと思う。
大人として考えれば、やっぱり一般的な認識と同じように愚痴や弱音は人に見せないものという結論になるかもしれない。

だが自分ひとりで抱え込むには限度があり、どうしたって心が苦しくなる人だっているのだ。

言わずに耐えて、我慢して、大丈夫大丈夫と言い聞かせ、顔で笑って心で泣く。

自分なりのストレス発散方法がある人、何かしらの解決方法がある人もいるけれど、そういう術を持ち合わせていない人もいる。

自分で自分の機嫌をとることもできないの?と思う人もいるかもしれないけれど、それとこれとは別…のような気がする。

自分が選んだことだから。
自分で決めたことだから。
自分で撒いた種だから。
だから人に愚痴を言って嫌な思いをさせてはいけない。
こんな重い悩みを打ち明けちゃいけない。
相手に背負わせてはいけない。

そんなふうに思って『大丈夫だよ』とニッコリしても、実はジワジワと心は限界に近付いていることもある。

だからこそ愚痴を言う、弱音を吐くことを悪いことだと決め付けず、実は案外大事なことなのでは?と方向転換することも必要なのではないかと思う。

お互いに『ちょっと聞いてよー』と愚痴を言い合い、『最近さぁ…』と弱音を吐き、最後には『聞いてくれてありがとう!』とニッコリできるほうが精神衛生上よっぽど健康的な気がする。

それが面と向かって友人や家族に言うだけではなく、SNSに投稿するという方法でも全然良いのではないだろうか。

大丈夫!元気だよ!とニコニコしながら自分だけで抱え込んで心で泣いているより、ねぇねぇ聞いてよー!と心が悲鳴を上げる前に気軽に吐き出してしまったほうが、顔も心も良い笑顔でいられる気がする。

命を断ちたくなるほどの苦しみを抱えるよりも、ずっと自分にも人にも優しい方法だと思ってはいけないのだろうか。


人と自分は違う

もしかすると愚痴を言ってはいけない、弱音を吐いてはいけないというのは私の周りだけかもしれない。

人間関係、仕事、育児、性自認、恋愛、夫婦関係、親子関係…。
たくさん悩みがあって、苦しみがあって、みんな大なり小なり藻掻きながら生きているはず。

そんなこと!と自分は思っても、本人にとってはそんなことではない。
それは比較してはいけないことだし、自分がその程度と感じるからって相手が苦しんでいることを否定してもいけない。

『私はあなたよりももっともっとずーっと辛くて苦しくてたくさん傷ついて悲しい思いをしながら生きてきた!だからそんなことで悩むことなんかないよ。そんなことで苦しんでたら生きていけないよ?』

これは私が実際に言われた言葉。
言った人に悪意はない。
むしろ優しく励ますつもりで言った言葉だというのはヒシヒシと伝わってきた。

気持ちは伝わってきても感謝する気持ちとその言葉から受けるものは別で、自分が真剣に悩んでいることや不安でいっぱいになって苦しくてたまらないと思っていたことをあっさり否定され、 “そんなこと” と一蹴されたことは、少なくとも私の心にダメージを与えるには十分だった。

つまり人に愚痴を聞いてもらう、悩みを打ち明ける、弱音を吐くことはリスクも伴う。

それでもひとりで抱え込んで悲しい選択をする可能性を少しでも減らせるのなら、愚痴を言うことも弱音を吐くことも人に聞いてもらうことも悪いことではないと思ってしまうのだ。


最後に

聞くことで影響を受ける場合もあるから必ずしもそうするべき!と思っているわけではない。

言葉にすることで愚痴は言わないといけない!弱音を吐かないといけない!と極論のようになってしまった気がするが、そうではない。

言いたかったのは、愚痴も弱音も悩みも人に言うものではないという美学めいた風潮を少しずつ『それもアリ』『選択肢のひとつ』と変化させていくことも必要ではないかということだ。

生きづらい世の中だからこそ、助け合い、支え合い、愛と感謝をもって人と接し、優しさと思いやりが溢れる世の中にしていきたいものだ。

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