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「寄り添う」ということについて考えた

経験していない以上、絶対にその気持ちはわからない。
「寄り添う」ということの難しさを考えさせられました。

『旦那が突然死にました。』

せせらぎさんの『旦那が突然死にました。』を読みました。

急性心不全である日突然旦那さんが亡くなってしまった。
その時、そしてその後のご自身の経験が、漫画をベースに描かれた作品です。
帯にも書かれている「当たり前は奇跡だ」という言葉の通り、
当たり前の「今日は何もなかったな〜」という1日が、実はどれほど大切で、輝いているものなのか、それをこれでもかと思い出させてくれました。

そして、「寄り添うということの難しさ」も深く考えさせられました。

「死別」という未知の経験

どんなに心寄せてくれたって、大切な人を喪った悲しみは、その人と関係を築いた自分にしかわからない。

本当にその通りだと思います。
旦那さんを亡くされた後の、悲しみ、苦しみを漫画を通して見ていて、
「大切な人との死別の苦しみは、
想像はできても、”わかる”ことは絶対にできない。」

と強く感じました。
まして私は、祖父母も4人揃って健在。
曽祖母の死は経験したけれど、小学校6年生だった当時、それはあまり実感のあるものではなく、
「話さなくなってしまったおばあちゃんが横たわっている。」
という印象だけが強く残っています。
そんな私には、「突然死んでしまったら…」と想像し、悲しい気持ちを抱くことはできても、「そこまで」でしかありません。

けれど、そもそも、
「寄り添えない」のは、死別に限ったことではないのかもしれない。
それはたとえ夫婦や、家族であっても同じこと。

「寄り添う」なんて、できないのではないだろうか

その人の人生のの苦しみや悲しみに対峙するのは、その人でしかない。
たとえ親友でも、親でも、子どもでも、最愛のパートナーでも。
人は全員、個々の人生を生きています。寄り添えないのが当たり前。

社会福祉士を目指して勉強する中で、
「相手の立場に立って考える」
「相手の気持ちに寄り添って支援する」
「共感を大切にする」

という言葉は度々出てきました。

そして、仕事をする上でも、子供の目線で、子供の気持ちを汲み取りながら関わることはとても大切にしています。

けれど、
「その人の人生の苦しみや悲しみに対峙するのは、その人でしかない。」
これは、だから寄り添おうとすることを諦めようというわけではなく、
相手のこと、そして自分のことも、大切にするために、
忘れてはいけないことなのではないだろうかと考えさせられました。

安易な「共感」は相手を傷つけてしまうこともある。
だからこそ、すべてを理解し寄り添うことはできない、と割り切った上で、
想像力をはたらかせ、理解できる部分を探し、
自分が力になれることを探す

それが、ソーシャルワーカーとして、とても大切なのではないだろうか。

どんなに同じ時間を過ごそうとも、どんなに多くのことを共有しようとも
同じ道を歩いているわけではない。彼は彼の道を歩いている。
その道で起こる困難に立ち向かうのも、何かを感じるのもその人でしかない。
(中略)
でもその短い期間を限りなく近い場所で一緒に歩けたのは、私の人生の宝です。

自分の家族やパートナー、施設の子供、そして将来出会う人
皆それぞれが、自分の道を歩いていく。
それを前提に、
自分の足で歩いていくための支えや、力になることができる人になりたい。

そんなことを考えさせられた、素敵な一冊でした。

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