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「一汁一菜でよい」ならば

料理は嫌いじゃない。けれど、夕方が近づいてきて、ああ今晩は何を作ろうと考えていると、なんだがか料理がすごく面倒臭いことのように感じられてきてしまう。
そんな私の肩の力がふっと抜ける本に出会えました。

結婚してすぐの頃は、夫はひとり暮らしが長かったこともあって「一汁三菜!あともう一品!」と期待半分、冗談半分に言われることが何度かありました。そして私も最初こそ、主菜が照り焼きだから副菜は…などなど、日々きちんと考えて作っていました。勤務先の児童養護施設で、それこそ「ザ・一汁三菜」の献立を毎日作っていたこともあり、そこまで負担を感じることなく考えられていたのです。

けれど、
「あ。これこの前も作ったわ…」と考えるようになった頃から、途端に負担感がムクムク。仕事の帰り道に献立を考えたり、家に着くまでに思いつかなければとりあえず主菜を作り初め、調理しながら「あともう一品…」なんて考えていたら、だんだんと料理そのものが楽しくなくなっていきました。

夫が、作ったものに文句やケチをつけてきたことは一度もありません。むしろいつも美味しいおいしいと言って食べてくれます。
ただ、だからこそ、「あれ、何か今日リアクション薄いな…」と一旦思ってしまうと、「今日の味付け微妙だったかもな…組み合わせそもそもイマイチだったかも…」と途端に自身喪失。1人で悶々としてしまうことも多々ありました。

「私は仕事から帰ってきてさらにこうやってご飯まで作っているのに、その間に他のことできるなんて羨ましいなくそう…」なんて、挙句の果てには夫のことを恨めしく思い始めるように。
「たまには作って欲しいな〜」と言う私に「いいけど、料理嫌いなの?」と夫。そう言われると、いや、嫌いじゃないんだけど、なんか、疲れちゃったんだよな…と言い淀む。

そんな今日この頃の私だったので

「この本は、お料理を作るのがたいへんと感じている人に読んで欲しいのです。」

というこの本の冒頭に「はいはいはい!!」と前のめりになって読み始めました。

「普通においしい」でいい

お料理した人にとって、「おいしいね」と言ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」といいますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。

あ、そうか。そうなのか。

ふっと肩の力が抜けました。確かに、母の作る料理は、同じ献立でもその日によって少し味が薄かったり濃かったり、些細な違いがありました。それでもいつも「普通においしい」味だった。自分も料理を少しばかりでしたがするようになってから、作った料理について、食べた人がどう感じたのかが気になる気持ちがわかるようになり、「今日のはおいしい」「ちょっと薄めだね」とその日の感想を言葉にするようになりましたが、ずーっと、「普通においしい」ごはんについて、わざわざ口にするようなことはありませんでした。

だから、

日々の食事は、ありきたりな定番のメニューで良いし、
作った料理に対して感想が返ってこなくても、それは「普通においしい」からこそなんだと、

そう思えるようになりました。

そして、ハッとさせられたのがもう1つ。

妻がその場で娘のために作る料理の音を、娘は制服を着替えるあいだに聞いたでしょう。匂いを嗅いだでしょう。母親が台所で料理をする気配を感じているのです。

私が料理を作る気配を、音を、匂いを、夫も同じ部屋で感じているはず。その時に、イライラしたり怒ったりしながら作っていたら、それだけで何だか残念な気持ちになってしまうんじゃないだろうか。
せっかく作るんだから、おいしいと思って食べて欲しい。喜んで欲しい。そんな気持ちで作っているのに、自分でそれを台無しにしているんじゃないだろうか。
だったら、品数は少なくても、変わりばえしなくてもいいから、楽しみながら作ったものを食べてもらえた方が、そしてそんな気持ちで作っていることを感じてもらえた方が、お互いハッピーなんじゃないだろうか。

そんなことを考えるようになりました。

今のわたしの約束事

1. 家でのごはんは「普通においしい」でいい。
2. 何だか物足りないかもなと思ったら、お味噌汁にいれる具材を少し増やせばそれでいい。
3. その代わり、基本である「一汁一菜」を丁寧に楽しく作る。

この3つを大切にするようにしたら、普段の料理がぐっと楽に、楽しくなりました。何でも気持ち次第。毎日のことだからこそ、楽しく暮らす工夫は大切ですね。

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