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期待する気持ちの裏返し

このところ悔しさに押し潰されそうな日々が続いていた。「悔しい」という気持ちと「なんとかやり通さなければ」という気持ちが、わたしの内側から反発するようにせめぎ合い拮抗していた。
少しでも「悔しい」気持ちが勝てば、その後に控えた「惨め」「何をやっているんだ」「わたしは何も成長出来ていない」といった自己否定の感情が押し寄せてくるような気さえしていた。

この拮抗状態を保つことが、唯一、論文の締め切りを目前にした私を私たらしめる方法だった。

何かの映画で、優等生が「もっと前から取り組むべきだと思うわ、3週間じゃ足りないわよ」と言っていたのを思い出す。何事も早くから取り組むべき、私もそう思う。でも、振り返ってみると、そんなに怠惰な生活をしていたわけでもない。足掻き続けて、書いたり消したり、データを見直したりしているうちに、なんのこっちゃ分からなくなって、結果として「なんのこっちゃ」だけが残ったみたいな仕上がりになった…。

悔いが残る。
出来ることならすぐさま「失礼しました!」と原稿を持って山奥深くに閉じ籠りたい。穴があったら入りたい。
(会社に提出だなんて…)

しかし、まだまだやるべき事は山のようにある。悔いてばかりもいられない。そもそも悔いってなんだろう。今後もこの感情と付き合わなければならないのなら、その本質を見極めねばならない。私は何故「悔しい」のだろうか。いつ「悔しく」なるのだろうか。

そのヒントは、自己否定の感情の裏側にある自分へ期待する感情にあるのではないかと考えた。「これくらい(のラインまでは)出来るだろう」という期待が裏切られたときに悔しくなるためだ。例えば富士山の8合目までは前もこれくらいのペースで登れたから、今回もこれくらいのペースで行けるだろう、と考えて登っていても、気候や年齢による体力の衰えなどで、全然思うように身体が動かない、みたいな。

そう考えると、自分に期待しているという事になるではないか。
…なんと!(絶句)
自己否定の中に自分への期待が隠れているとは…。
悔しいと思えるだけまだマシか。自分に諦めをつける前に居座れているのならば、もう少し頑張ってみようと思う。

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