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(SM短話)曇り眼鏡を拭う
カンカン
カンカン
老夫婦が営む小さな定食屋の中まで踏切の音が鳴り響く。昼のピークを過ぎており、店の中の客は私と男の二人だけだった。
壁に貼られた手書きの紙に並ぶメニューを眺めてもさして特徴的なものはなかったため、目の前に座る男に聞いた。
「何がおすすめですか。」
「ここは鍋焼きうどんが美味しいですよ。」
男が答える。
それを聞いて私は素直に鍋焼きうどんを注文し、男は「天麩羅そば、大盛りで」と言った。
これからホテルに行くと言うのに大盛りを頼むのかと少し呆れたが、私よりも2回りくらい大きな体ではそれくらいが適量なのかもしれない。
「今日は寒いですね。」
場の緊張をほぐすためか、男が話しかけてくる。
「山間部は雪が降っているみたいですね。」
朝見た天気予報を思い出し、会話を続けた。
どこかよそよそしい空気が二人の間に流れている。
カウンターの中の老夫婦は気にすることは無いだろうが、私たちは他人からどのような関係に見えているのだろう?
少し危なげな足取りでテーブルに運ばれた蕎麦の湯気が男の眼鏡を曇らせた。
「お先にどうぞ。」
「それじゃ、先にいただきます。」
そう言いながら男が眼鏡を拭った。
いつもそうしているのだろう。
手慣れた仕草だった。
コンタクトレンズを愛用する私から見ると、なぜそんな煩わしいものをかけて過ごしているのかと思うが、毎朝、自分の眼球にふにゃふにゃとしたレンズを入れ、毎晩それを取り出すことの方が余程煩わしい行為なのだろう。
自分の頼んだうどんを待つ間、美味そうに蕎麦を啜る男を見ながらふと考えた。
男と私はこの何でもない定食屋で会計を済ませた後、非日常の場所に赴く。
そこでは私は彼を支配し、彼は私に全てを委ねる存在だ。
水一滴を飲むためにも男は私の許可を得なければならないし、指一本すら自分の意思で動かすことも、ましてや私の体に触れることもない。
行為の最中に発する熱で男の眼鏡が曇ってしまったら、私がそれを拭ってやらねばならないのだろうか。
それとも初めから外させた方が良いのか。
眼鏡なしで私の表情は見えるのかしら?
もしぼやけた視界で私を見るくらいなら、いっそ何も見えなくしてやろう。
目隠しをして、
手足の自由を奪い、
「こっちにおいで」
手の鳴る方へ。
床をじりじりと這わせる。
脱衣室あたりからスタートしたら結構見ものかもしれない。
「どうかしましたか?」
そう声をかけられ、私はレンズ越しの目を見据える。
「いいえ、何も?」
ゆるりと微笑みながら、透明なガラスコップにそっと口付けた。
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