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「それでも僕らは夢を見る」第一話

【あらすじ】
頭が悪い。常識がない。お前は何もできない女。
夫による厳しい制限や罵声に晒されながら、それらすべてを「仕方ない」と諦めて生きていた由希子ゆきこ
お金が必要である彼女は、かつらと名乗る青年の家で、通いの家事代行スタッフとして働き始める。
「榎本さんがいてくれてよかった」
桂とその愛犬・スカイと触れ合ううちに、自分を大事にする心を少しずつ取り戻していく由希子。
そして彼女の変化は、夫婦の間に刻まれていた深い溝の存在を露呈させることになる。

夢を持たない二人が出会いを通じて成長しあう、現代版シンデレラストーリーです。

※エブリスタにも同様のものを掲載しています。



由希子ゆきこさん」

 かすれた声が耳にかかる。

 堪えきれない熱い吐息が、溢れるように漏れ出るさまも。

「僕に全部言ってください。行きたいところも、やりたいことも」

「……か、かつらさん」

「少しずつ叶えていきましょう。今まで望んでも得られなかったものを、ひとつひとつ埋めていきましょう。どんな小さなことでも構いません。夢物語の類でもいい」

 抱きしめられた腕が解かれて、ゆっくりと離れる身体。

 白い指先が私の髪に触れ、それからそっと頬をなぞる。

「僕は、貴女を幸せにしたい」

 力強く――何かを夢中に求めるような、必死で、一途で、追い詰められた眼差しが、それしか見えないほど間近な距離で私を射抜く。

 悠久の沈黙。たゆたうクラゲの淡い輝きに包まれたその中で、私たちはただ静かに見つめ合う。

 縋るように。……あるいは、互いを支え合うように。

 やがて、桂さんの長いまつ毛が、ゆっくりと頬に影を作った。薄い唇が呼吸にあわせ、ほんのかすかに隙間を開ける。

 かすかに上下する喉仏。二人しかいない世界の中で、触れてはいけない唇が触れる――。




 そびえたつ邸宅を見上げて、私はごくりと唾を飲んだ。

 黒を基調とした飾り気のない壁に、窓の奥を隠すシンプルなカーテン。道路側の側面を目隠しのフェンスが囲んでいるけど、その奥に見えるお庭は狭め。簡素なウッドデッキと整えられた芝生があるばかりで、ガーデニングを楽しんでいるような気配も見られない。

 全体的に質素というか、生活感が感じられないお家――そういう印象を抱いてしまうのは、たぶんここが近隣でも有名な高級住宅地の中だからだろう。

 少し周りを見渡してみれば、いかにもな豪邸がずらりと並ぶ。和風の庭園に魚が跳ねていたり、高級車が何台も停まっていたり……暇と金を持て余した上流階級の生活が垣間見えて、私みたいな凡人とは住む世界が違うのだと実感する。

 そして、こうした諸々の邸宅と比べればここのお宅はシンプルそのもの。余計なものは必要ないという家主の合理性が見て取れるようだ。

(ものすごく感じの悪い、冷たい人だったらどうしよう)

 脳裏によぎる恐ろしいイメージを、目をつむって振り払う。

 大丈夫、大丈夫。インターホンの正面に立って、まずはゆっくり深呼吸。

(私ならできる。きっとやれる)

 この日のために毛先を整えて、黒ゴムだけどきちんと結んだ。ひっつめ髪だと顔が丸見えだから、なけなしの化粧品で薄化粧もした。服だって衣装ケースの底から小綺麗なものを引っ張り出した。

 あんなにしっかり研修を受けて、実技もたくさん練習したんだ。これでダメなら……ああ違う、ダメな時のことなんて考えるな!

(……よし)

 人差し指をえいっとボタンへ。ピンポーン、と間延びした音が響き、やがて返事も聞こえないままガチャリとドアの鍵が開く。

 これは、入ってこいってことなのかな? 想像通りの愛想の悪さにいきなり胃が痛くなってきたけど、こんなところで早々に挫けるわけにはいかない。私はもう一度深呼吸をしてから玄関のドアをそっと開いた。

「お邪魔します……」

 こわごわと声をかけつつ、脱いだ靴を丁寧に揃える。

 表の印象とは違い、とても明るくて清潔なお家だ。犬を飼っていると聞いたけど、壁紙や床は傷もなく綺麗。獣特有のにおいもしないし、元気な吠え声も聞こえない。

 全体的に物が少ないのは外観そのとおりであり、きっとゴチャゴチャした空間をあまり好まない方なのだろう。見える中で唯一のインテリアといったら、靴箱の上のスペースに置かれた大きな写真立て――ただし写真は入っていない――くらいだろうか。

(さて、何事も最初が肝心だ)

 姿勢を正してリビングへ進む。開きかけのドアをノックしようとして、さすがに変かと思い直し、もう一度ちいさく深呼吸してからドアノブに手をかけた。

「ハウスキーパーシーナから来ました、家事代行の榎本由希子です。よろしくお願いします!」

 できるだけフレンドリーに見えるよう、口角を上げて、声は明るく。

 昨晩家で何度も練習した私の渾身のご挨拶は、彼にしてみればきっと失笑もの、いわゆるダダ滑りだったのだろう。

 冬特有の淡い光が大きな窓から差し込むリビングの、真ん中にある革張りのソファにゆったりと腰かける彼。私を見据えるその瞳は氷のように冷め切っていて、ただでさえ涼しい部屋の空気がさらに一層冷たく感じる。

 でも、私を本当に圧倒したのはそれじゃない。

「……どうも」

 さらさらで艶のある髪に、透き通るように真っ白な肌。

 大きな二重の瞳を縁取るまつ毛は作り物みたいに長くて、通った鼻筋、ちいさな唇……そのひとつひとつが左右対称の、絵画の中から抜け出したみたいに整った顔の青年。

 その眼差しに見つめられるだけで、私みたいな卑小な女は呼吸が止まってしまうような……そしてそのまま、彼の持つ圧倒的な存在感に押しつぶされてしまいそうな。

 そんな場違いなくらい美しい顔貌に、私は思わず言葉も忘れて呆然と魅入ってしまっていた。なんて綺麗な人だろう。モデル? 俳優? それとも何かのアーティストとか? たいへんな人に雇われてしまったようだと、少し遅れて鼓動が速まる。

 黙り込む私をどう解釈したのか、彼は静かに居住まいを正すと、

諏訪邉すわべかつらです。こちらはスカイ」

 と、横たわる白いボルゾイ犬のなよやかな背中を撫でつけた。

「事前資料でご存じでしょうが、僕と犬のふたり暮らしです」

「は、はい」

「書類上は週三日、掃除と料理をお願いしていますが、もし時間が足りないようなら遠慮せず言ってください。逆に仕事が早く終わり過ぎたなら、すぐ帰っていただいて結構です」

 聞き惚れてしまうような綺麗な声。少し高めで、でもとても穏やかで、落ち着いたトーンの中にちょっとした色気がちらりと覗く。

 ただ、どうやら私はあまり歓迎されていないようだ。彼の表情は明らかに冷たいし、さっきから目もあまり合わない。犬を撫でる手つきは優しいけど、私にはあまり関わりたくないような……そういう雰囲気が随所からひしひしと感じられる。

「掃除機は階段下の収納に。作り置き用のタッパーはそこの棚に入っています。他にも必要なものがあれば、その都度教えてください」

「かしこまりました」

「僕は二階の自室にいます。掃除に入るときは、一声かけるようお願いします」

 では、と短く言い捨て、彼はあっさり私に背を向けると、二階へ続く階段を音もなく昇っていく。

 え、これでご挨拶おわり? あまりにもあっけなくてさすがに戸惑ってしまう。私、なにか嫌われるようなことをしてしまったかな。いや、まだ挨拶しかしてないし……この平凡な顔が好きじゃないと言われてしまえばそれまでだけど。

「あっ、あの、諏訪邉さん!」

 私が慌てて声をかけると、彼は階段の手すりに手をかけ、静かに振り返った。

「洋食と和食、どちらがお好きですか?」

「作りやすい方で結構です」

 くるりと背を向け、会話は終わったとばかりに去る諏訪邉さん。

 うーん、バッドコミュニケーション! 私、先行きが不安です。



#創作大賞2023 #恋愛小説部門





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