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水族館の大水槽を眺めながら、忘れかけていた「自分らしさ」を思い出した話

私が原点回帰したい時に行く大好きな場所、水族館。

まあでも、水族館ならどこでも良いと言うわけでもなく、新江ノ島水族館(通称:えのすい)が好きなのだが。

電車で1時間の場所にあるので、週末ならいつでも行けるのだけれど、なぜか、去年は誕生日のひとり旅で訪れてから一年が経過していた。

ここ最近は「自分らしさって何だろう」ともんもんと自分と向き合う日々だった。

悩んでも悩んでも答えがでなくて、ずっと「えのすい」が頭の片隅に浮かんでいたのだけれど、そこに足を運ぶエネルギーが湧かなかった。

でもふと行きたくなり、足を運んだ。


この日は海の日だったからか、親子連れも多く、いつもほどゆっくり鑑賞はできなかったのだが、いつものお気に入りスポットで大好きな音楽を聴きながら、ひたすらに大水槽を眺めた。

どれくらいの時間そこで過ごしたんだろう。

ふと、(水槽の中には色んな魚がいて、大きさも、色も、泳ぐスピードも、水槽での過ごし方も、群れ方もみんな違っているんだな〜)と、当たり前のことを思った。

大きな体でスイスイ優雅に泳ぎ、華やかさで観客を魅了する魚もいれば、生きているのかどうかわからないくらいじっと動かない魚もいた。常に集団で移動するスイミーのような小魚の群れもいた。

水槽を無心で眺めながら、面白いな〜と思ったのは、必ずしも観客全員が優雅で華やかな “それ” ばかりに注目しているわけではないということ。

もちろん大きさと優雅な動きが目を引くから、注目する人は多いのだけれど、それには目もくれず、ゆっくりのんびり泳ぐ魚や、岩の隙間に隠れてじっとしている魚を見ている人もいた。多くはないのだけれど。


きっと自分は、大水槽の優雅な “それ” じゃないと思う。

でも、人生を振り返った時 「“それ”じゃない私」をちゃんと静かに見守ってくれていた人がいて、その人たちが今ここまで連れてきてくれたのだということを思い出して、ハッと我に返った。

ここ最近、「自分らしさ」について考え、ひとのアドバイスを聞くほどに自分が惨めになって苦しかった。見た目の華やかさや、明らかな観客の反応のある優雅な “それ” が羨ましかった。

でも、やっと気づいた。やっと、本来の自分らしさを取り戻した。

私は、必ず見守ってくれている人がいると信じて、ゆっくり、のんびり、自分らしく生きることにする。

だって、その名の通り「遅咲き」のゆきりんだから。


やっぱり「えのすい」は私にとって原点回帰の場所だ。