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高学歴は痛快なことを言えない ~発言守備力と断言の難しさ~

ことのあらまし

私は先日、下記のような記事を投稿しました。

2日で約25000ビューほどに達しており、たくさんの感想をいただきました。

Twitterでは「本質的」「自分が思っていたことが全部ここに書かれてる」「このような記事を待っていた」といったコメントまであり、素直に嬉しかったです。東京の狭い話ではありますが。

さて、はてなブックマークのトップページにも掲載され(てしまい)、数多くのコメントが寄せられていました。もちろん好意的なものもありましたが、個人的に面白いと思った方向性のコメントが結構ありました。概要だけかいつまむと

「守りすぎ」「ガードを張りすぎ」「気を遣いすぎ」「炎上を恐れすぎ」「官僚的」

といった種類のコメントです。

推敲もほぼしていない記事であり、書いているときは完全に無意識だった点です。自分でも確かにそうだなと思いました。なので、自己分析したい。

わざわざコメントする方々というバイアスも大きいと思われますが、個人的に正直言って予想外だったこれらのコメントに対する自己分析、感想(反駁?笑)を備忘録として書いておきます。

痛快なことを言ってくれる高学歴は多くない

炎上芸したいわけじゃない以上、主語を大きくしないのは当然

と私は言いたい。

「御三家」とか「東大合格」みたいなキャッチーなタイトルにしてしまったがために、読者がそういうキャッチーな方向性を(無意識にせよ)期待してしまったというのはあると思います。

主語を大きくして物事を断言しにかかる高学歴は、やや珍しい存在です。テレビに出てビシッと痛快なコメントを言うような東大生や東大卒ばかりみているとそれに慣れているかもしれませんが

「バカとブスこそ東大へ行け!」はドラゴン桜ですが、例えば私が「才能がない子供の中学受験はムダ!」って言えばウケるでしょう。でもそんなことが言いたいわけじゃない。それは短絡的。

何かを勉強すると、たくさんの例外に触れます。また、エビデンスに基づかない主張はけっこう叩かれます「それはデータじゃなくて感想ですよね?」と。一部の界隈では全く根拠がない感情的な主張を「お気持ち」といって揶揄していたりします。また、周りに自分より優秀な人がたくさんいる環境で過ごした人は、万能感を持っていません。自分がちょっと考えたことはすでに誰かが考え、検討していることも多いので。卑屈になりすぎるのもダメですが。

実験データや論文、学会発表、医師の説明でもそうです。

ある遺伝子変異を持つマウスで確認された現象を、マウス全体の現象と解釈してはいけませんし、ヒトでも同様の現象があると即座に判断してはいけません。

ほとんどの医者は、がんと診断された患者さんに余命宣告などしません。統計的なデータから想定される余命をお伝えすることはありますが、ほぼ必ず「とはいえ断言はできません」、「人によります」を付け加えます。

「一応東京大学」

一応東京大学という大学をご存知でしょうか。

これは、TV番組などのインタビューで東大生が大学を聞かれて「一応東京大学です」と答えてしまう現象です。これは、実際には皮肉でもなんでもなく

「(同世代でトップクラスに優秀な人がいるから自分は東大を代表できる存在なんかではないけど)一応東京大学です」

の略です。卑屈というより、上がたくさんいることによる萎縮(言い訳)です。

この「一応東京大学」現象と、前述した主語を大きくすることの危険性を知っていることの相乗作用として、「~な可能性が高いと思う」「~な人もいるでしょう」「知識が不足していてコメントが難しい」といった、見ようによっては曖昧で煮え切らない主張をする人が出てくるわけです。もっと詳しい人がいるので。

りんごは美味しい

まして、ここはインターネット。

「りんごは美味しい」

と誰かがつぶやこうものなら、「私が食べたりんごは不味かった」「全てのりんごが美味しいわけじゃないですよね?」「美味しいって主観ですよね」「りんごが食べられない人もいます」といったリプライが来るわけです。この例はバカバカしいですが、同じことをする人はたくさんいます。

そんなの対応する必要がありませんが、数多く目にしていると対応するようになってしまいます。「猫を温めないでください」という電子レンジの説明書ですねこれでは。気にし過ぎかな。

全ての高学歴の人が上記のようなメンタルではないということを申し上げておきます笑

なにかを断言できることの価値

「癌は治療してはいけない!」

という主張と、

「○○な条件の○○癌の患者さんで、~%の効果がある薬がある」

という主張、どちらにリーダーシップを感じますか。まぁ前者でしょう。私も前者です。

でも現実問題、世の中はそんなに単純ではありません。勉強して色々なことを学ぶほど、例外や知識なく主語を大きくすることの危険性を知ってゆきます。

悪く言えば煮え切らないとか官僚的ということになるかもしれませんが、良く言えば慎重かつ不用意な発言に注意しているということです。

だからこそ、ここぞというときに自分の専門領域で何かを断言できることに価値がある。事実に裏打ちされた確実な主張を一つ一つ積み上げることは非常に難しく、その結晶の一つが科学です。


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