違いの時代。

今年4月、新卒から7年間お世話になったリクルートコミュニケーションズ(以下RCO)を卒業し、5月からR/GAという会社に入社した。(どんな会社で何をしているかは後で触れますが、外資系のクリエイティブエージェンシーです)コロナ禍での転職になってしまったこともあり、直接ご挨拶できていない方も多いので、この文章でのご報告になる方はすみません。

転職して、気がつけば約6ヶ月ちょっと経った訳ですが。間違いなく、社会人人生で最も過酷で辛い半年間だったと言える。初めての転職に加え、初めての外資、ほとんどリモートワークの環境。会議もメールもチャットも資料も、全ての言語が英語に変わり、一度も会ったことがない外国人たちとオンラインで仕事をする日々が続いた。

初日のオンライン自己紹介(英語で15分)から始まり、いきなりアサインされたミーティングでは、日本人が1人しかいない(クライアントも外国人とか、聞いてへん)中で、いきなりアポを進行しなければならず、そもそも誰が身内で誰がクライアントかすら分からず撃沈した。90%以上理解不能な英語会議が、朝から6-8個連続で続き、毎回の会議で何も発言できず、「大丈夫?」的なことを聞かれた。おそらく、この半年で2年分ぐらいの恥をかいたと思う。

以前なら口頭で「よろ!」的に5分で済んでいたことが、国籍も言語も違う相手だと、事前に話すことを整理して、英語に訳し、ドキュメントに落とし、話す練習をし(なんならそれを録音して聞き返したりしてたら)、1時間以上かかったりした。

社会人人生で初めての”サザエさん症候群”に陥り笑、メンタルギリギリ(正直途中ちょっとアウト気味の時もあったw)の中で、時には自分への期待が高いあまり、実態とのGAPに苦しんだが、それでも、良いことも悪いことも全部一度受け入れてきた、そんな半年間だった。

初めて書くこのNoteは、昨今流行りの入社エントリーでもなければ、何かの意思表明でもないが、「なぜ、RCOを辞めたのか」「なぜ英語もろくにできないのにグローバルカオスなこの環境に来たのか」について、過去の経験も振り返りながら最近考えていたので、今のこの苦しみを挑戦の代償だと言い切るためにも、2020年の振り返りとして言葉にしておく。

たぶん、少しだけ長くなりますが。

1.幼少期の自分

子供の頃、「自分は特別だ」という不思議な自覚があった。それは、自分と周りの人たちとの”違い”について意識した2つの転機が起因しているように思う。

1つめの転機は、8歳の時。突然右膝が痛くなり、足を引きずるようになった。周囲や医者からは成長痛だと言われたが、3つ目ぐらいに行った病院で「ペルテス」という原因不明の足の病気だと診断された。レントゲン写真を見たら、そこにあるはずの股関節の丸い骨が全て溶けてなくなっていたことだけを鮮明に覚えている。その日の病院の帰り道から立つことさえ許されず、母親におんぶしてもらって家に帰った。おぶられながら、「気いつかんでごめんな。」と母親に泣きながら謝られた記憶があるが、当時の自分にはその言葉の真意すら理解できていなかったと思う。

そのまま数日後には入院することになり、仲の良かった学校の友達や家族とも離れ、1人病院に入ることになった。入院生活はそのまま2年近く続き、2度の手術も経験した。病院に隣接した養護学校に通い、同世代の同じ病気の子や、手足が不自由な同級生、言葉が話せない同級生たちと算数や国語を学んだ。

そして10歳になったとき、退院し車椅子と松葉杖ではあったが元の小学校に帰ることができた。入院前は何気なく一緒にドッヂボールをしていた友達に、「車椅子押してあげようか?」と言われるのが嫌で、学校に行けなくなったりもした。車椅子で出た運動会、障害者エリアで見た甲子園、車椅子証明用のシール、当時経験した全てが「自分は他者とは違う」という意識を植え付けた。

2つめの転機は、中学・高校の野球部。そんなこんなで小5ぐらいまで松葉杖での生活を送っていたが、中学では思い切って野球部に入部した。比較的強豪校だったこともあり、少年野球すらやっていない僕は、70-80人いる部員の中で、間違いなく下から片手で数えられるぐらいに下手だった。(盛らずに言って)7番手セカンドぐらいだったと思う。入部を迷っていた僕に、「まずは半袖だけ買うたるからやってみ」と両親が買ってくれたアンダーシャツは、その後長袖も含め何度も買い足してもらうことになり、結果的に、下手くそながらも中高一貫校で6年間野球を続けることができた。

高校3年の最後の夏の大会前、ベンチ入り18名に入る可能性がもうないと判断された3年生は、監督に呼ばれ”引導”を渡され、「チームに残るか?受験勉強に専念するか?」を問われるというのが当時の母校の慣例で、例外なく僕も呼ばれることになった。

「どうする?」と聞かれ、他のみんなと同じように「チームに残るが、自分の練習をやめ、サポートに徹します」と言うと、「お前はサポートに徹せず、これまでと同じように練習後に居残って練習を続けなさい。そして、練習中にレギュラーたちのミスを叱りなさい。これまで居残り練習を続けてきたお前にしか伝えることができない言葉があるはずだ。それが70人以上いる同じベンチ外メンバーの中でのお前だけの輝き方じゃないか?」と言われた。(年を経て、ちょっと美化されてる気がするが笑、大筋そんなメッセージだった)

野球というスポーツにおいて、試合の結果を直接的に左右するのは試合に出ている9名であり、ベンチに入っているその他10名程度だったりするが、それ以外の数多いる数十人の中での自分の役割を意識せよ、という監督のメッセージは、当時の自分にとって衝撃的なものだった。それは、キャプテンや、ピッチャー・4番といった明確なポジションやタイトルでは定義されない、自分で考え、定義していく固有の役割であり、役割意識でもあると思う。

病気という外的要因によって特別になった8歳の自分と、自分を特別にするための内発的な考え方や努力を野球を通して学んだ18歳の自分。思えば、その頃から、「自分は特別であるはずだ」という現在の自己肯定感が生まれ、「常に異なる環境に身を置きながら、自分と他者との"違い"を探す」というのが人生のテーマみたいなものになっていった気がする。

2.人生の青写真

“自分と他者との違い”への興味は、次第に野球以外の外の世界に向けた好奇心へと変わり、大学の4年間では本当にいろんな人に会い、いろんなことを経験した。月に30人以上の人と知り合うという謎目標を自分で決め、いろんな場に出向き、本を読み、海外に行き、国際協力や学生団体にも参加し、ゼミやサークルも一生懸命やった。一生懸命やってなかったのはバイトぐらいで笑、それ以外は所謂の意識高い系というやつだったと思う。

そんな好奇心そのままに、就職活動では商社からメーカー、ベンチャー企業まで約200社近くに応募した。「誰かの人生を変えるものづくりがしたい」という全社統一の青臭い志望動機を話して回っては、3次面接ぐらいで志望度を見抜かれてお祈りメールを受け取り続けた。「文系唯一のものづくりとは何か?」を考え、それってつまりはコミュニケーションを作る仕事で、新たな仕組みや文化を作る仕事なんじゃないか。しかも、誰かが考えて作った”何か”を売る仕事ではなく、自分の中からそれを生み出してみたいと思うようになり、唯一営業職以外でエントリーしたRCOを受け、有り難いことに内定を頂いた。

当時面接で話していた、「不細工なゴリラに口紅を塗る仕事ではなく、赤が嫌いだからりんごを食べたことがないという人に向けてりんごの皮を剥く仕事がしたい」という、極めて青臭く抽象的な例え話も、RCOの人は「何それ?どうやってやるの?」と興味深く聞いてくれた。そうして、「誰かの人生を変えるものづくり」は、ライフイベント事業を生業にするリクルートにおけるクリエイティブ職という形で、スタートを切ることになった。「誰かの人生を変えるものづくりがしたい」という思いは、その後も自分自身の”人生の青写真”であり続けたが、当時はその実現方法については分からなかった。

「やりたいことがなければリクルートへ行け」と言われることもたまにあるが、まさしく、やりたいことを見つけ、それを仕事にするための考え方や心構えみたいなものを教えてくれる会社だった。自分自身の問題意識や大義を掲げ、手を挙げ、それに対して、あらゆる期待(=機会)と投資をもらえる素晴らしい環境。もちろん、自由には責任が伴うことも身を持って教わった。

ゼクシィメディアの広告制作ディレクターとしてスタートし、2年目以降はメディア以外の企画やクリエイティブをクライアントと協働し、RCO自社サービスの検討・開発、新設の営業企画部への出向兼務、新規事業の立ち上げ、最後の2年間は若くしてサービスデザインの花形部署のマネージャーまで任せていただいた。その中で、多くの優秀で優しく熱い上司や先輩、同期、後輩たちと多くの仕事を経験した。

期待をいただく反面、多くの葛藤もあった。月曜日の役員会起案の資料が書けずに、日曜日のオフィスで(文字通り)泣いた夜もあった。在籍した7年間で、優秀な先輩や上司の”期待の下駄”を履き、その下駄の上でさらに背伸びもしながらその期待に応えていくのが楽しかったが、期待や実績と共に会社の中枢にいけば行くほど、いつしか、自分のやりたかったこと(人生の青写真)と会社のやりたいことややるべきこと(経営)との境界が溶けていく感覚があった。そして、その感覚に一度慣れると、もう戻って来られないのではないかというやんわりだが確かな不安があった。

そんなことを考えていた昨年4月、会社の制度で1ヶ月の休みをいただき、デンマークにあるデザインスクール” KAOSPILOT”の短期プログラムに参加した。

デンマークKAOSPILOTにはなぜ多くの起業家が学びに来るのか?  https://www.cinra.net/interview/201812-kaospilot

欧州圏のクリエイター17名と自分(唯一のアジア人)という座組みでスタートした初日最初のセッションで、「20分間で自分の人生を話せ(もちろん英語で)」という無茶ぶりがあった。今よりもひどい英語にも関わらず無事に乗り切ったが、向こうの人たちの自らのVisionを社会と接続させながら語る姿に圧倒された。そんな中、自分のやっていることや今後やりたいことを自信を持って話せない自分がいた。英語の文法上の特性や語彙力の問題もあるが、「自分の仕事は何か?」「それは誰のためのものか?」「それをなぜやっているか?」をシンプルに伝える必要があったが、もちろんリクルートという会社名を知っている人などおらず、前提のない中でうまく話せず、しどろもどろした。

3.青写真を裏切る

北欧から帰ってきてほどなくして、RCOを辞めることを決めた。KAOSPILOTでのきっかけも大きかったが、何よりも社内でのポジションが確立し、”守られた中での確約された誰か”になりかけていた自分がこわかった。「自由であることに目を瞑り、決定論的シナリオに身を委ねることは不安から逃れているだけである」と哲学者のサルトルが実存主義の中で言っていたが、当時の自分にとっては現状の延長線上に身を委ねることへの不安の方が大きかった。(ひとえにその覚悟がなかっただけかもしれないが)

あらゆる前提や価値観が擦りあった人たちとだけではなく、前提の全く異なるグローバルな人たちと、新しいことを、マーケットや社会に向けて企ててみたい。KAOSPILOTでの原体験もあり、グローバルかつカオスな環境での挑戦を決めた。その舞台として、R/GAのTokyoオフィスを選び、有難いことにご縁を頂いた。

R/GAはNYに本社を置くクリエイティブエージェンシーで、米・欧州・南米など世界に約16個のオフィスを持つ40年以上の歴史を持つ企業だが、日本初となるTokyoオフィスはまだ創立4年目になる。
◆R/GA 広告界にディスラプションをもたらしたエージェンシーの今
https://www.advertimes.com/20190110/article283113/

約30人の社員の半数以上が外国籍の人たちで、残りの日本人のほとんども帰国子女。そんなチームで、日系企業の新商品開発やブランド起点での体験デザイン、外資系企業のサービス・キャンペーンの日本市場へのローカライズを手伝っている。自分自身の役割は、クライアント接点から新たなビジネス機会やプロジェクトを立ち上げ、チームを巻き込んでそれを推進することだが、正直言ってそんな大それた事はまだできていない。

生業にしているものは、RCO時代と変わらず言語を含めたコミュニケーションであり、そこには以前のような前提の上に成り立つ汲み取り合いは存在しない。言語の通じない中においては特に、必要なのは言葉ではなくアクションなのだと気づく。自分だけのユニークさを意識しないと、本当の意味でチームには貢献できない、必要とされない現実。日本人であること、日本語を話せる事ですら自分の”違い”であり、”役割”なのだと自覚して、日本語の翻訳から始まりみんながやりたがらないことも積極的にやった。

肩書きだらけのエージェンシーにいることとはある意味逆説的だが、固有のポジションや肩書きで仕事をしていては置いていかれる。全体の流れを読みながら、自分にできる役割を考え、流動的に動く。国内のサッカーチームではエースストライカーだったやつも、欧州クラブに行けばボランチでまずはディフェンスに徹した、的などこかで聞いたような話だ。

朧げに形が見え始めてきた”人生の青写真”を一度裏切り、自分をスクラップアンドビルドする。これが、ちょうど20代を終えるときに決めた、転職の理由であり、自分なりの挑戦だった。

4.違いの時代に、多様性を迎えに行く

2020年は言うまでもなく、多くの人にとって大変な1年だったと思う。テレビをつければ、感染状況に、大統領選挙・人種差別のニュースでも、「全員一丸で」という他人との同調圧力や驚異的とも言える団結(と分裂)がある一方で、ビジネス書を開けば、「個人の時代だ。他者とは似て非なる個を持って生きてゆけ」といったメッセージも同時に存在する。主観だけでも共感だけでも生きていけない、全くもって複雑でカオスな時代だ。テレビやSNS上では一見確固たる信念を持って生きているように見える有名人や経営者なんかも、不安や孤独と戦いながら、自分なりの何かを突き詰めてるんやろうなぁと、最近妙に尊敬してしまった。

そんな、共感だけでは生きていけない時代においては、2つの選択肢があると思う。小さなコミュニティで、分かり合える人たちと一緒に生きていくか?それとも、思い切ってその心地良いコミュニティを飛び出すか?たぶん、どちらか一方ではなく、両方同時に必要とされる気もする。今の自分は、後者をまるで(進撃の巨人の)調査兵団の壁外調査の気持ちで飛び出した感じだ。

多様な時代に生きていると言われるが、普通に生きていても多様性を持ったモノやコトと出会うことはほとんどない。家と会社を往復し、週末は特定の友達と遊び、特定のYouTuberの動画を見て、ほとんど同じ毎日を過ごす。だから、外の世界に飛び出すのはすごく怖い。

だけど、自分が見たこと、聞いたこと、やったこと、その経験の積み上げによって、自分自身が形作られていくのだとしたら、自分を変えるヒントはその”いつもの壁”の外側にあったりもする。グローバルな環境にきて、日本人である自分を意識したり、転職してみて初めてRCOで自分がやってきたことを言語化できたりした。そうやって一回り大きめの箱の中に自分を置いてみると、自分自身の輪郭や進むべき空きスペースみたいなものがうっすらと見え始めたりする。外に向けて動けば動くほど、結果的に自分の内側にその反動が返ってくる感覚。

最近、会社でキャリアサーベイがあり、同僚からこんなメッセージをもらった。

"It's okay to make mistakes. The team still absolutely values you and what you have to say." (間違ってもいいから。チームはあなたとあなたが言うべきことを絶対に大事にしている)

苦しんでる時に読んだら泣きそうになる一言w。人と違う自分を無理に作らなくてもいい。だけど、現状のままの自分に閉じてしまう事は誰のためにもならない。外の世界に働きかけて、様々な"違い"を受け入れながら、自分を変えていくことが必要だと思う。多様性の坩堝のような今のカオスな環境で、少しでも自分を変えながら、影響力を発信できるような2021年にできたらと思う。

違いの時代に多様性を迎えにいく。自分に固執せず、異なる価値観や矛盾さえも自分の中に取り込んでいける人になれたらと思う。それが今の挑戦が報われる時だ。

長い文章を最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
苦しんでる類の話を多く書きましたが笑、来年に向けて仕込んだり、既に動き始めている面白いものがいくつかあり、その話はまたお酒を飲みながら話しましょう。ではでは、皆さま、2020年最後の2週間を楽しく健康にお過ごしください。

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