エッセイ【卵の殻はもう割れない】
高低差のある音が同じリズムで鳴り響いていた。
放課後の昇降口。ランドセルをせおった生徒が一斉に音の出所へ顔を向ける。僕もそのうちのひとりだ。防犯ブザーを鳴らしていたのは、転校生の伊坂真奈美だった。
伊坂真奈美は、三年生の夏あたりに転校してきた。おぼろげな記憶ではあるが、リコーダーを吹く彼女の姿を見た気がするのでおそらく間違いないだろう。
転校といえば初顔合わせの挨拶を思い浮かべるが、伊坂のそれは僕の記憶にない。伊坂との一番古い記憶は、席が隣どうしになったときのものだ。
あの頃はなにかといえば隣の席とペアを組まされた。漢字テストの答え合わせ、わざわざ机をくっけての給食。ただでさえ泣き虫だった僕は、転校生が隣の席になるということが不安で仕方がなかった。
小学生の僕は、それは異常な泣き虫だったので、危うく泣きかけた。いま思えば迷惑極まりないが、そのとき泣かずに済んだのは伊坂のおかげだった。
彼女は隣が僕と知ってもなにも言わずただ微笑んで、あとは周りの子と喋ってばかりいた。ペアでなにかをしなければいけないときこそ話すが、あとは関わることもなく、穏やかな日々を過ごせていた。
伊坂と関わったなかで濃く記憶に残っている出来事がある。何かの授業で隣の席の人の顔を描く時間があった。
真っ白な画用紙に、適当な丸。丸と同じ黒いクレヨンで、円の上にぐしゃぐしゃと線を書き、なかは肌色で塗りつぶした。目や鼻や耳は、口を描くついでにすべて赤色で描いたのを覚えている。
似顔絵に怒るでも喜ぶでもなく、伊坂は半笑いだった気がする。自分でもへったくそだなあと思って呆れていたので、同じ気持ちだったかもしれない。
伊坂はなぜか僕の短くなった肌色のクレヨンを奪い、それと交換で似顔絵をくれた。どんな絵かはまったく覚えていないが、渡してくれるときクレヨンを奪った伊坂が寂しそうな顔をしていたのは覚えている。
いま思えばのちの転校を思っての顔だったかもしれない。僕が描いた似顔絵が下手すぎるあまり切なくなったという可能性を考えたくはなかった。
伊坂はたった一年で転校したが、彼女のいた一年のあいだには不思議なことが僕の身にいくつも起きた。
たとえば、歩道橋の一件だ。
三年生という時期によく遊んでいた國井という同級生がいた。
その日、僕は國井と図書館へ出かけていた。本を読む趣味はなかったが、市立図書館はたまに無料で漫画を譲ってくれる。僕らはそれを目当てにしていた。
互いの自宅からほど近い小学校で待ち合わせをしてから、図書館へと歩く。道の途中には、歩道橋があった。
歩道橋は、片側が階段、もう片方は坂道を二度曲がってのぼることで橋に上がる造りになっていた。
その日は、なんとなく坂道から歩道橋を上がった。一度曲がったあたりで足音が聞こえた。誰だろう、と思っていると、目の前の角を曲がって男が坂をおりてきた。男はひとりだった。小学生の僕からしても背は高くなかったと思う。ジーパンに柄シャツ。背中になにか棒状のものをせおっていた。
示し合わせたわけでもないのに、僕らは二人とも坂道を引き返し、気づくと歩道橋を下りていた。歩道を全速力で走り、近くの老人ホームに駆け込んだ。
「どうしたの?」
大人たちが駆け寄って、心配そうに声をかけてくれる。隣にいた國井も、僕と同じく困った顔をしていた。この状況を、なにも説明できなかった。
おそらく前方に現れた男に驚いた、もしくは怖がって走ったのだろう。しかしそんな気持ちは老人ホームの入り口で座り込んだときには微塵もない。一体なぜ自分はこんなにも走ったのか。あの一瞬、まるで身体だけが拒絶したように男を避けていた。しかも自分だけじゃなく國井まで。
翌日以降、事件を流すニュース番組を何日間か注視していたが、特になにも起こらなかった。時が経つと目の前で事故が起こっても、近所で事件が起きても、いつのまにかあまり気にしなくなってしまった。
伊坂と國井のふたりを同じ視野に入れた記憶がないので忘れていた。國井も三年生の終わりに転校してしまったのだ。
伊坂の印象深い思い出は他にもあった。忘れてはいけない、伊坂真奈美といえば防犯ブザーだ。
彼女は転校生として異質な存在ではあったが、人として目立つような子ではなかった。その印象が変化したのは、彼女が突然防犯ブザーを鳴らしてからだ。
はじめ、教室で鳴ったその音に同級生はただただ驚いていた。伊坂が音を止めるまで、なぜか誰もが固唾をのんで彼女の一挙手一投足に視線を注いでいた。ようやく静かになった室内が徐々に音を取り戻し、弛緩した空気のなかで一番ヘラヘラしていたのも伊坂だった。それで終わればただの小さいアクシデントだったのだが、ことは一度で終わらなかった。
二度目に音楽室で鳴ったときは、ランドセルから外してポケットに入れていたのをわざと鳴らしたことで強く怒られていた。怒られているときの伊坂は笑っているようだったが気味が悪いとかそういった感情は表情からはしなかった。だからクラスのなかでもそれ以上浮いたり輪が乱れたりすることもなかった。
あの頃、不思議な出来事は他にもあった。
僕には國井のほかにもうひとり、よく遊んでいた友人がいる。名前を樋口という。
樋口とは入学当初からなぜか一緒にいることが多かった。三年生になると國井を含めた三人で放課後を過ごすことも多かった。
その日、僕は樋口の家へ向かっていた。同級生の小崎というやつもあとからくる予定だった。先に樋口の家へ着いた僕はインターフォンを鳴らす。玄関を開けたのは樋口の母親だった。顔色が悪そうだった。
「ごめんね、さっきうちの子怪我しちゃって。今日は遊べなくなったの」
僕がしゃべる前に樋口の母親は言った。顔色は相変わらず悪く、声音も震えていた。
後ろに見えたガラスの引き戸が粉々に砕けていて、床には赤いものがあった。ただ心臓だけが動きを早めていたら、目の前で樋口の母親が壁に手をついた。声をかけようとしたら、仰向けにそのまま後ろに倒れてしまった。
そこから先の記憶はない。
でも、気づくと樋口の家からは離れた場所を歩いていた。レンガ造りのビルを曲がると、偶然にも小崎とすれ違った。
「あれ? 帰るの?」
と自転車に乗った小崎に
「うん。樋口今日なんか遊べんくなったって」
と言葉がついて出た。
まるで最初から言葉を決めていたみたいにすんなりと出たことに自分でも驚いていた。
後日、樋口が学校に登校したので昨日のことを問いかけた。彼は一切怪我なんてしていないと答えた。それどころか、僕と小崎が約束を破ったとすねていた。
小崎は当然僕のせいだと語ったが、その疑いを晴らす方法を僕は知らなかった。なにせ怪我が起こっていないと言われている。このうえ「昨日お前の母親が倒れたのを見た」などと言えるわけがなかった。自ら嘘つきと言われに行くようなものだ。
それに、仮にその光景が事実だったとしても、放って逃げ出した自分について語る気はどうにも起こらなかった。
結局、僕はなにが悪いのか分からぬまま、謝ることでその場を収めた。
どうやったって修復できない苦い記憶だ。
そうだ、それ以来しばらくのあいだ樋口とは遊ばなかった。だから國井とよく出かけていたような気がする。
わざわざグローブを買ってまでキャッチボールをしたのも國井とだった。昆虫探しに野球、キックベースやポケモンごっこといろいろした遊びのなかで、僕が一番好きだったのが冒険だった。
冒険といっても小学三年生の冒険は通学路以外の道すべてだ。
本来ならそれすら学校からは許されていない。だからせめてもの遵守としてランドセルを家へと置いてから、もう一度学校に戻り、いつもとは違う道でまた帰宅した。
自分の家なのに何度も知らない道で帰り続けていると、段々と本当に帰れているのか不安になってきて、途中で止めようとした。でもまた数日すると、学校に集まって違う道で帰宅するのを繰り返していた。
途中で飽きたら、学校でボール遊びをしていたこともある。一旦あいだをおくことで、違う道への好奇心も高まっていた。
ボールは互いの持ち物の場合もあれば、学校の貸し出し品のときもあった。貸し出しボールはいくつか種類があって、軟式の野球ボールはわざわざ職員室で氏名と貸し出し時間を用紙に記入し、先生に提出してからしか利用できなかった。その点、昇降口に置かれていたふわふわの大きいボールは持ち出し自由だった。貸し出し時間の申告も必要ないが、五時には戻さないといけなかった。そのボールは授業でもよく使われていて、主にドッジボールで見かけた。掴みにくく威力も出ないので、意欲的に参加しない人間からすると大変ありがたいボールだった。
昇降口といえば、三度目に伊坂が防犯ブザーを鳴らしたのも昇降口だ。
教室や音楽室のときと違い、伊坂はすぐに音を止めようとしなかった。近くにいた同級生も彼女だからと騒がないでいた。でも他学年の生徒は慌て、いつまでも消えない音に見たことのない先生がさすまたを持って現れたのには驚いていた。
あのとき僕はひとりでいたのか、それとも國井といたのかは記憶にない。
國井との冒険も回数を重ねると、新しい道も見かけなくなっていた。互いに学校から徒歩十分程度の場所にある家だ。道を変えようにも限度がある。
それに僕らは子どもだった。新しい道への行き方を考える、新しい発想が浮かばないのは致命的だった。
ふらふらと道を探しながら歩いていると、歩道橋の近くでふわふわの大きいボールが道を転がっていったことがある。誰かが投げて学校から出してしまったのだろうか。
樋口の家は少し遠く、方角も異なっていたのだが、何度か冒険の途中に寄った気がする。
その頃にはもう彼も機嫌を直していて、謝ったことに納得していなかった僕のもやもやもなくなっていた。正しくは身に染み込んでいた。わたがしのように甘くはない心持ちは、綺麗になくなるものではなかった。
それでもまた三人で遊ぶようになった。
樋口の家に入ったとき、いの一番にガラス窓を見たが、新しいのに取り替えられているのか判別はつかなかった。母親も相変わらず優しい人だったが、頬に白いガーゼを貼っていた。見なかったことにした。
経緯は忘れたが、その時期には小崎の家にも訪問した気がする。たしか僕ひとりだった。
嘘つき呼ばわりしてきた小崎への鈍い痛みのような淀んだ感情は以後ずっと消えることはないが、小崎はなにも悪くない。
彼の部屋には野球ボールがあった。学校の貸し出し専用ボールと同じに見えた。ちょうどその頃学校で、野球ボールがいくつか紛失していた。
小崎の野球ボールで、四人で遊んだような気もするし、國井はもうその頃にはいなかったような気もする。
國井と最後に遊んだときも、やっぱり冒険をしていた。
転校前日、お互いの家へと離れる分かれ道でさよならは哀しいから、学校からそれぞれ違う道で帰ろうと國井は提案した。翌日の終業式で会うからさよならではないのだが、それっぽい提案を僕は喜んで受け入れた。
冒険も終わり再び学校へ戻ると、忘れ物をしたという國井に付き添った。
教室で給食袋を探す國井を見ながら、僕は伊坂の席を見ていた気がする。伊坂も同じように翌日の終業式を最後にこの学校を去る。しかしどうにも國井のような感慨はない。ただ、もう防犯ブザーの音は聞かないだろうな、とそれだけを考えていた。
國井と廊下を歩きしんみりした空気のなか、いつかまた会えた時の話でだけ盛り上がったのを覚えている。
昇降口につき、靴を履きかえる。かかとを踏まないよう整えながら、下駄箱にしまった上履きを眺めていた。隣ではまだ國井が靴を履いている。
振り返って数えた上履きの数は、クラスの人数に合なかった。きっとまだ校舎に残っているのだろうとも思ったが、運動靴を足しても数は合わなかった。
昇降口の隅に置かれたふわふわのボールも、棚へ縦に三列四個ずつの計十二個なのにひとつ足らなかった。
貸し出し時間は過ぎている。教室で五時のチャイムはすでに鳴っていた。なによりさっき校庭を歩いたとき、すでに生徒はひとりもいなかった。
でも深くは考えなかった。自分の勘違いで済ませられてしまうことばかりだったから。
靴を履き終えた國井が、仰向けになった。腕を上へと伸ばし、気持ち良さそうに身体も伸ばしている。
「柳原もやってみ」
と國井が言うので仕方なくぼくも横になる。
寝転ぶと、遠いはずの天井がいつもより近くに感じた。真っ白の板に大きさもまばらな黒い点が点在する模様はずっと見ていると気分が悪かった。
だから僕は目を閉じた。
まぶたの裏で、赤っぽい光が蠢いて落ち着かない。すぐに目を開けた。
そのとき音が聞こえた気がしたが、周りにそんな様子はない。僕と國井はほぼ同時に起き上がった。
変わったことはないが、僕は自分が変な熱に浮かされているような気がしていた。いやもっとわかりやすい感覚、まるで寝起きのようにからだは気怠く、まぶたが今日初めてあけたかのように重かった。
元々、丈夫な方ではない。風邪でもひいたのか、と思った。
「俺ら、いま起きた?」
だから國井がそう言ったときは驚いた。同じような感覚は、彼にもあったのだ。
そのたとえは的を得ているような気がして、僕は曖昧な笑顔で頷いた。
困惑している國井の背後に見えた上履きは、改めて数えると人数と一致していた。ボールもすべて揃っていて、僕は訳がわからなくなっていた。
でも、やっぱり自分の数え間違いで済ませられる話だったし、昇降口で寝ていたとも思えなかった。もしそうだとしたら、自分の記憶はいったいどこからどこまでが夢なのかとても分からなかった。
翌日、國井のお別れ会が開かれた。思い返しても、折り紙で飾り付けされた教室のなかに、伊坂真奈美の姿はない。終業式から、いやずっと前から、彼女はいなかったような気がした。
彼女が鳴らした防犯ブザーの回数と、僕の身に起きた不思議な出来事の数はともにみっつだが、これはあくまでも覚えているだけにすぎない。よって、仮説を立てたとしてもそれは突飛であるというよりは、限りなく妄想だ。
別の場所へととばされた僕を、ブザーの音で現実へと引き戻し続けてくれたなどと、本気で信じるには大人になりすぎた。或いは、ことの枝先を余計に伸ばす力だけは成長したともいえる。
防犯ブザーが危険を伝えるための道具であることを考慮すればさきほどの妄想にあたるが、防犯ブザーの音で、伊坂真奈美は僕に夢を見せていたのだとしたら。現実のすぐそばにある、とびきりの悪夢を。
そうであるなら昇降口で聴いた音は、もしかしたら夢から覚めたのではなく、夢へと連れて行かれたのかもしれない。
そうすると、僕はあれからずっと夢を過ごしていることになる。それも悪くないし、そう信じたいのかもしれない。
二十年以上の月日が経過して、こないだふと伊坂真奈美を思い出した。きっかけは歩道で、小学生が防犯ブザーを誤って鳴らしてしまったの目にしたからだ。すぐに止めたあと、黄色い安全帽子を被った同じような背丈の子どもたちは揃って通りを奥へと歩いていった。
いつかの僕が、防犯ブザーを鳴らした伊坂真奈美に話しかけていたら、あんな未来もあったのだろうか。それとも、今の環境が丸ごと変わっていたのだろうか。ブザーの音が聞こえたのは寸前のはずだった。それでも音は、遠い昔から届いているような気がした。
彼女がなぜ防犯ブザーを鳴らしていたのかは分からない。伊坂以外に分かるはずもなく、もしかしたら本人すら分かってはいないのかもしれない。
帰りには、久しぶりに歩道橋を渡ってみた。想像よりも小さくて驚いた。
あのとき寄った老人ホームは空き地になっていて、もう逃げ込めないのかと思うと、すこしだけ怖くなった。