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随筆:「声」 〜映画『コールヒストリー』〜

佐々木友輔『コールヒストリー』との出会い

渋谷は宮益坂.イメージフォーラムhttp://www.imageforum.co.jp/theatre/)は,ひっそりと路地裏に佇んでいる.この建物にはいくつかの小さなシアターが備え付けられ,普通の映画館で公開される規模ほどの集客は期待できないが,ニッチな層に届きそうな前衛映画や試作映画などが公開されているという.

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今回,たまたま仕事中に知り合った藝大OGの方からお誘いを受け,高松出張から帰京した翌日というハード日程ではあったが,3階の「寺山修司」と名付けられたシアターで,佐々木友輔監督作品『コールヒストリー』http://www.imageforum.co.jp/cinematheque/1025/index.html)を鑑賞することに.

そもそもお誘いがなければ渋谷の路地裏の映画館自体に行くことはなかったので,どんな映画が待っているのだろうという興味半分,初心者でも受け入れてもらえる空気があるのだろうかという怖さ半分で,入り組んだ階段を上がり,シアターへと歩みを進めた.

シアター内は,公開が2回だけというのもあってか超満員.監督のゼミ生などは夜行バスでいらしたという話も漏れ聞こえてきた.小さな劇場(Theatre)という趣で,映画館に来たというよりは,美術館の片隅にある映像作品のスペースを訪れたような感覚だ.

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佐々木監督が冒頭挨拶.いつもはアフタートークなどで来場者とコミュニケーションをするが,今回は映画本編を見て,みなさんが感じたことを持ち帰ってほしい,と.なるほど,こういう映画館だと「アフタートーク」という概念が存在するのか.しかも,今回はそれをあえてやらないと.作品と鑑賞者の間に作者(author)が入らないことを選択したスタイル,興味深い.


声の揺らぎと重層性

映画本編は,福島一帯に伝わる『声』の伝承を追いかける「私」と「彼」を軸に展開する.途中から「美術家」が登場し,三者間のやりとりにより物語がより重層化して行く.『声』の伝承とは,映画の紹介文によれば,

ふとした時、知らない誰かに声をかけられ、他愛もない会話をする。話しているあいだは気づかないが、後になってからはたと気づく。「さっきまで話していた人はヒトではなかった。私はいま〈声〉を聞いたのだ」と……。
[http://www.imageforum.co.jp/cinematheque/1025/index.html]

というもの.この伝承を追いかける「私」「彼」「美術家」の三者の人物や心情の揺れ動きが鑑賞者に提示されていく.

さて,この映画の第一に特筆すべき点は,まず「全編が朗読である」という構成にある.「私」や「彼」の姿は映像としてほとんど現れず,「私」や「彼」が見た福島や東京の風景がひたすらに流される.その上に,一人の朗読が90分近くずっと続いて行く.

概要をあまり読まないまま本編を見た私は,最初15分くらい戸惑いを隠せなかった.まず登場人物が何人いるかの把握,それからその人物たちの関係.視覚情報がないとここまで苦労するのか.情報量が多い映画が大半を占める中で,舞台設定の理解のために頭を使うのに慣れていなかったのもありそうだが,映画の舞台設定に入り込むのにかなりの時間を要した.

しかし,語りが進むにつれ,物語(物語り)の中に自然と引き込まれて行く.「美術家」と「私」が「アーティストトーク」の場面がそれぞれの視点から語られた部分は,そのすれ違いが互いの内観の提示によって明らかにされている.なるほど,朗読と一人称視点の映像で提示されて行くこの映画の世界は,ひょっとしたら湊かなえの作品に近いかもしれない(詳細は私が以前に書いたブログ記事を参照してほしい).彼女の作品もひたすらに「神の視点」を排除し,一人称・二人称の視点で物語を展開させる.そして,そこで生まれるすれ違いが最終的に大きな悲劇へと結ばれる.

湊かなえ作品の多くがドラマ化・映画化されているが,だいたい幻滅してしまうことが多い.「カメラ」が「神の視点」を提供した瞬間に,彼女の作品の醍醐味が削られてしまい,平板なミステリーに成り下がってしまう.彼女の作品が「神の視点」を排除している以上,「カメラによる登場人物の俯瞰」が不可欠な映画やドラマは,本質的に相性が悪いと半ば諦めていた.

しかしこの作品は,湊かなえ的な「神の視点を排除した物語」に真っ向から勝負して映像化し,そういう映像・脚本の構成がありうる,という視座を提示してきた.本来,私たちが日々の会話を送る中では「全知全能の神の視点」は存在しない.「コミュニケーションは,本質的にディスコミュニケーション性を孕む」という言葉で私はよく語るが,私たちが語った言葉は相手にどう届いているかは定かではない.伝えようと思っていった言葉が正しく伝わるとは限らず,相手の受け取り方や解釈によって多分に揺らぎ,すれ違って行く.こういったコミュニケーション(声)の揺らぎが生むすれ違いを正面から問いかけてくるように感じた.

さらに付け加えるならば,「朗読」という操作によって視点(声)が重層化されていた.「私」「彼」「美術家」の三者は三者自身に割り当てられた声で語られるわけではない.この映画には第四の「朗読者=語り手(narrator)」が存在する.この「朗読者」は,三者の声を代弁し,また解釈し,読者へと声を届ける役割を果たす.語り手(narrator)は権威づけられた神や作者(author)ではない.むしろ,読者と作品の間を仲介し,解釈の一例を示して行く媒介者/調停者(mediator)である.語り手の抑揚や方言のニュアンス,その一つ一つの機微によって,三者のすれ違った視点が一つの解釈のもとに纏められ,「語り手ー登場人物」という重層化がなされている.

野家啓一『物語の哲学』の中で,琵琶法師の語りによって平家物語の展開が揺らぎ,様々な物語として伝わって行った,そんな話を小耳に挟んだことがある.この映画も,物語の盤面の外側で様々な解釈が行われる余地を残し,その解釈の一例を朗読者により示す「語りの揺らぎ」が提示されていた.

『コールヒストリー』は,伝承を追いかける人々の語りの揺らぎ,それを包摂する朗読者の揺らぎ,その二つの層から「声」の危うさを提示してくる,そんな素敵な,そして鋭い切り口の映画に出会うことができた.


声の危うさに相対する中で

私たちは,日々「声」を使ってコミュニケーションをしている.一人暮らしで家に引きこもる日でもなければ,毎日のように他者と声を使ってコミュニケーションをしている.そして,しばしばその声はすれ違い,他者との間に軋轢や駆け引きを生み,時に人を結び,時に人を分かつ.声は危うい.これは当たり前のことなのだが,この危うさをしっかりと受け止めるのは難儀である.特に,サイエンス/アカデミックコミュニケーションの実践をやっている身としては,自分の話をどうやればうまく相手に浸透させられるか,日々その課題に直面している.

コミュニケーションは,空気を伝った音としての「声」を伝達することではなく,解釈や反芻を経た「声」を浸透させる部分までケアが必要である.果たして,その浸透のためには何をどのように伝えていけば良いのか.コミュニケーションの根本に立ち返って,今一度そういった「伝える」ことのあり方について,考えていく必要があるように感じる.



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